ARAHABAKI



第一章




 小さな川にかかる、小さな橋。
 コンクリートの欄干は、僕の腰くらいまでの高さしかない。
 街中なのに、川の周辺にはそれなりに木々が茂り、外灯の光を遮っている。
 もともと交通量は少なく、この時刻なら、人も、車も、ほとんど通らない。
 そんな、夜中の橋の上で――僕は背中に視線を感じた。
 振り返って、そこに誰もいないことを確かめる。
 誰もいなくても、その場所で、誰かの気配を感じたことは、ちょっとだけ嬉しかった。
 でも、たぶん、それはみんなのものなんかじゃない。
 みんなが現れるとしたら、それは背後ではなくて目の前にだろう。
 何の根拠もなくそう思いながら、夜の橋の上に立ち続ける。
 夜気は冷たく、月光はよそよそしく、どうしようもなく一人だったけど。
 それでも僕は、そこに立ち続けていた。




 私がその場所に訪れた時、すでに彼女は手遅れだった。
 潤んだ瞳と、半分開いた唇、そして、上気した肌。
 コートの上からでも見て取れる豊かな胸の膨らみが、大きく上下している。
 異性の欲望と、同性の羨望をかき立てずにはおかないその見事な体が、欲望に支配されきっているのが、見て取れた。
 廃工場の中の空気は、彼女の内なる火照りと同調するかのように、生温く粘ついている。
 外の清澄なる夜気とは別の空気が、この広い建物を支配していた。
 私は、その中で、物陰にじっと身を潜めている。
 不可視の触手が肌を撫で回しているようで、とにかく、不快だ。
 私は、心を石のように堅くし、ただひたすら待った。
 待っているのは、彼女も同じだ。
 だが、彼女は、その身に宿る期待をあからさまに表情に表していた。
「ねえ……」
 一部の蛍光灯が光を放つ、薄暗い工場の中で、彼女が、わだかまる闇に向かって声をかけた。
「もう来てるんでしょ? 早く……早く出て来て……」
 彼女は、そう訴えかける。
 一拍遅れて、闇が、もぞもぞと動いた。
 私は、両目に意識を集中する。
 工場の端――蛍光灯の光の届かない場所から、のっそりとそれが姿を現した。
「あぁ……」
 その姿を見て、彼女が、熱く濡れた溜め息をつく。
 工場の中が、彼女の吐息の分だけ、温度と湿度をわずかに上げたように思えた。
「待ってたわ……あなたを待ってたんだから……」
 彼女は、その整った顔に薄い笑みを浮かべ、それに近付いた。
 近付きながら、着ていたコートを脱ぎ捨てる。
 彼女は、コートの下に、何も身に付けていなかった。
 だが、彼女が寒さを感じている様子は無い。もはや彼女にとって、ある一つを除いて、感覚など無意味になっているのだろう。
 それは、人間のように笑みを浮かべる代わりに、喉の奥から満足げな唸り声を上げた。
「ああン……」
 その声だけで体が疼いたのか、彼女は、ぞくりと体を震わせた。
 そして、ゆっくりとその場にひざまずき、それと視線の高さを合わせる。
 彼女の目の前にいるそれは、今夜は、黒く大きな犬の姿をしていた。
「はあぁ……」
 彼女が、艶やかな唇を開き、濡れた舌を突き出す。
 それは、突き出た鼻面を彼女の顔に寄せ、長い舌を突き出した。
「あふ……うむ……ちゅ……ちゅぶ……ちゅぷう……」
 湿った音が、辺りに響く。
 犬のカタチを真似たモノと、まだ女のカタチを保ったモノが、舌を絡め合っていた。
 彼女が、愛しげにそれの頭を抱き、それの鼻面にキスを繰り返す。
 それは、目を細目ながら、彼女の口元を舐め回した。
 剥き出しの彼女のヒップが、妖しく揺れ動いている。
 彼女の足元には、股間から漏れ溢れた粘液が、水溜を作りつつあった。
 ――うるぅ……。
 犬そのものの鳴き声を上げ、それが、彼女の肩口に鼻面を近付ける。
「きゃうっ」
 右の肩に噛み付かれ、彼女は悲鳴を上げた。
 だが、その声は、目の前の牡に媚びるような、甘い響きを含んでいた。
「あ、ああぁ……」
 それが、彼女の肩に噛み付いたまま、その体を地面に倒す。
 彼女は、コンクリート剥き出しの床に、両手をついた。
 さらに、それは、彼女の上体をさらに床へと押し付ける。
「あう……んくうン……」
 彼女は、逆らうことなく、左右の肘を床につき、そして、ヒップを高く掲げた。
 交尾を待つ牝犬の姿勢――
 それは、ようやく肩から口を離し、彼女の後ろに回り込んだ。
「あぁ……見て、見てぇ……あたし、あなたを待ってるうちに、こんなになっちゃったんだから……」
 彼女が、その丸いヒップを揺する。
 その中心で、彼女の秘処は、大量の愛液を溢れさせていた。
 それが、その場所に顔を寄せ、すんすんと鼻を鳴らす。
「あっ、やあぁん……匂いなんて嗅いじゃダメぇ……」
 彼女の声は、その内容とは裏腹に、牡を誘うように甘い。
「あああ……や、やらしいでしょ……エッチな匂いになっちゃってるでしょ……? あなたのせいよ……あなたが、あたしをこんなふうにしたんだから……!」
 自らの肩越しに背後の牡を見詰めながら、彼女が言う。
「ねえ……愛して……あたしのスケベなそこを、いつもみたいにイッパイ愛してェ……」
 その言葉の含む意味が、それに届いたのかどうか――
 それは、一度鼻を鳴らしてから、その長い舌でびちゃりと目の前の肉花を舐め上げた。
「ああああああン!」
 彼女が、ビクンと体を震わせる。
「あっ、あうっ、うく、あひいっ……! ンあああああン!」
 甘い悲鳴に、それが彼女の秘部を舐め回すびちゃびちゃという卑猥な音が重なる。
 忙しく動く長い舌が肉の花弁を蹂躙し、溢れた愛液を舐め取っていた。
「はひ、あひン、きひいっ……! あああ、す、すごいのォ……! お、おかしくなっちゃうぅ〜っ!」
 彼女が、唇の端から涎を垂らしながら、生白い裸体をくねらせる。
 その瞳には、もはや理性の光など一片も無い。
「んううっ! あふうっ! も、もうダメ! イっちゃう! イっちゃううっ!」
 犬のカタチをしたそれによる激しく執拗なクンニリングスにより、彼女は、今夜最初の絶頂を迎えようとしていた。
「あっ、あっ、あっ、あっ! イク! イクのぉ〜! あああン! イックううぅ〜!」
 叫び声とともに、彼女の体が痙攣した。
 まるで失禁でもしたかのように愛液がしぶき、彼女の膝の間の床に、大きな水溜りができる。
「あ、あはぁっ、はひ……うあああああン……」
 彼女は、ヒップを高く掲げたまま、ぐったりと上半身を弛緩させた。
 豊かな乳房が、体と床の間に挟まれ、淫猥に形を変える。
 ふっ……と、それが、鼻を鳴らした。
 そして、悠々とした動きで、彼女の背中に覆いかぶさる。
 その股間では、禍々しいほどに赤い陰茎が反り返っていた。
「あひ……あああ、してくれるの? 犯してくれるのね?」
 彼女が、床に頬をつけたまま、期待に満ちた声を上げる。
「入れて……あなたのオチンチン突っ込んでぇ……! その素敵なペニスで、ズボズボしてほしいの!」
 羞恥よりも情欲で頬を赤く染めながら、彼女が、卑語を喚く。
 それは、彼女の背中に前足の爪を立てながら、腰を進ませていった。
「あううっ……! 来る……来るのォ……! ああぁ〜ん、オチンチン来るう〜!」
 ヒトのそれとはまったく形態の違うペニスが、綻びた秘唇に潜り込む。
 そして、それは、遠慮の無い動きで、彼女の中に侵入した。
「あひいっ!」
 一気に奥まで貫かれ、彼女が、高い声を上げる。
 構う事なく、それは、抽送を始めた。
「あうっ! あく! ああうっ! はひいいい! すごいっ! すごいのぉ! あぁ〜ん、お、おかしくなっちゃうぅ〜!」
 あからさまな嬌声を上げながら、彼女が悶える。
 その体を前足で踏み付けながら、それは、早いリズムで腰を前後に動かし続けた。
「うあうっ! 奥っ! 奥に届いてェ……! うあああああっ! こ、これっ! これがイイのっ! こうされるのがイイのぉ〜!」
 異形の男根が、彼女の中へとさらに前進する。
 そして、根元で不気味に膨らんだ肉の瘤が、彼女の秘部に触れた。
「あああ……アレね? アレを入れちゃうのね……!」
 かすかな怯えと、熱い期待を孕んだ声で、彼女が言う。
「入れて……入れてェ……! アレで、オマンコを塞いでっ! 早くゥ〜!」
 肯くことも、声で答えることもなく――それは、ただ腰を進ませた。
「ひぎいいいいいいいいいいい!」
 体の内側が割り裂かれたような、激しい悲鳴。
 だが、それは、まぎれもなく歓喜の声だった。
「は、はひ、あひいいいい! こわれるう! オマンコっ! オマンコこわれちゃううううう! おああああああああ!」
 限界まで引き伸ばされた肉の穴に、ペニスの根元の瘤が、ねじ込まれていく。
「あうっ! ああああああ! いいっ! いひいいいいぃ〜! もっと……もっとおぉ〜! あおおおおおおおおっ!」
 どこか獣を思わせる、彼女の声。
 その声に呼ばれたように――あちこちの闇から、黒い影が姿を現す。
「はへっ! あへえええっ! もう、もうあたし……ああああああああああ!」
 ひときわ大きな声を、彼女が上げる。
 それが、彼女の体内に、射精を始めたのだ。
「熱いっ! 熱いいいいいいいいぃ〜! ひいい! ひああああああ! 焼けちゃう! 子宮ヤケドしちゃうっ! イク、イクう! ンぎいいいいいいいいいい!」
 ヒトならぬ精を体奥に流し込まれ、彼女は爪で床を掻き毟った。
 苦痛と快楽にその顔は歪み、涙と涎でグチャグチャになっている。
 そんな彼女に――新たな影たちが群がっていった。
 ヒ、フ、ミ、ヨ……。
 一番最初の一体同様、仮初めにも犬のカタチを模しているのは、四体だけだ。
 イツ、ム、ナ、ヤ……。
 あとの四体は、ただ四つ足というだけで、犬なのか豚なのか、まるで見当が付かない。
 ただ、その股間から、不気味にぬめる赤いペニスが突き出ていることだけは、共通していた。
「あひいいいン……! イッパイ……オチンポ、イッパイなのぉ……! はへ、はへえっ! 飲ませて! ミルク飲ませてぇ〜!」
 このような展開が既に何度かあったのか、彼女は、恐怖する事なく、周囲の異形たちに淫らな笑みを浮かべ、手を伸ばした。
 そして、突き出されたペニスを扱き、頬擦りし、口に含む。
 ほどなくして、新たな影たちは白濁した精を放ち、彼女の体を粘液まみれにしていった。
「うぷっ、んっ、あはぁ……チンポ汁ぅ……はふぅん……ちゅぶ、ちゅばばっ……はぷう……チンポ汁おいひいのぉ……はひいぃン……」
 顔に飛び散った白濁液を指で集め、啜り上げながら、彼女が陶然とした吐息をつく。
 私は、もうそれ以上の出現が無いことを確かめ、両手に持っていた鉄製の洋裁鋏の刃を展開させた。
 そして、潜んでいた場所から、一挙動で姿を現す。
 影が――ミズヒルコどもが、こちらに視線を向けた。
「しゃっ!」
 鋏を、投げ付ける。
 念入りに祓禊を施されたその鋏は、狙いを外すことなく、それぞれ別のミズヒルコの頭部に突き刺さった。
「ギキキキキキキキキキ!」
 神経に障る奇怪な叫び声とともに、二体のミズヒルコが、のけ反る。
 そのカタチが溶け崩れ、黒い汚水のようになって床に飛び散った時には、乱戦が始まっていた。
「イイイイイイイイイイ!」
 残りのミズヒルコどもが、私に殺到する。
 私は、心を乱す事なく、コートの内側に仕込んだ新たな鋏を取り出した。
 鋏を両手に構え、床を蹴る。
 赤い陰茎を剥き出しにしたままの、後足で立つ犬のようなそれに、右手を突き出す。
 鋏の鋭い先端が、人で言うなら喉笛に当たる場所に、深く突き刺さった。
 右手に急激に手応えが無くなるのを感じながら、左からの攻撃を、鋏で受け流す。
 ぎん! という音とともに、火花が散った。
 ミズヒルコどもの指先から伸びる爪は、まるで金属のように硬い光沢を放っている。
 この廃工場に放置されたままの何かとくっついたのか――詮索は、無意味だ。
 体を回転させながら、右手の鋏の刃を開き、身を沈めるようにして攻撃者の腹を薙ぐ。
 溢れる体液は血ではなく、赤く濁った廃液だ。
「グカカカカカカカカカ!」
 威嚇の叫びにも、狂気じみた哄笑のようにも聞こえる、その声。
 心を動かされる事なく、別の敵に跳躍する。
 そいつの首に脚を絡め、逆手に持った両の鋏で頭部を突き砕く。
 廃工場の中に、饐えたような悪臭を撒き散らし、それも、カタチを失った。
 その時には、私は、三体のミズヒルコに囲まれていた。
 もはや、ミズヒルコは、いかなるカタチも保っていない。関節というもののないその体は、まるで、幼い子供が戯れに作った粘土細工のようだ。
 辛うじて、二本の足で立ち、両手の先端にある鉤爪を構えて、こちらを窺っている。
 その頭部にある目は瞬きするように出現と消滅を繰り返し、ずらりと黄色い牙の並んだ口は、喉の方まで裂けていた。
 まるで出鱈目。左右は既に非対称。常の生き物のフリをすることすら放棄しているのか、息もしていない。
 それは、凝り固まったケガレであり、カタチを整える前に生まれてしまった災厄。
 まさしく――ミズヒルコだ。
「ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲ!」
 三体のミズヒルコが、包囲の輪を縮める。
 それは、私を襲うというより、取り込んでしまおうとしているかのような動きだった。
 両手の鋏で二体を同時に斃しても、残り一体に取り憑かれかねない。
 私は、最初の時と同じように、両手の鋏を投げた。
 そして、振り返りざまに、左の袖に仕込んだ鋏を右手で抜き、大きく振り回す。
「ガッ!」
「ンゲッ!」
「グガアッ!」
 次々と三つの叫びが上がり、腐ったような色の液を撒き散らしながら、ミズヒルコが原初の混沌以前へと還元される。
 これで、残りは――
「助けて!」
 その声に、はっと体の動きを止めてしまう。
「お願い――助けて――あたし、あいつらに――」
 彼女が、目に一杯の涙を浮かべ、私に懇願する。
 その表情は、怯える童女のそれだ。
 だから、私は、一瞬とは言え、油断をしてしまったのだった。
「助けて――助けて――助けてエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ」
 彼女の腹部が大きく膨らみ、破裂するようにして、黒い触手がそこから何本も現れた。
「くっ……!」
 不覚にも声を上げる私を、汚穢な粘液にまみれた触手が問答無用で押し倒す。
「タアアアアススススススススケテエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ」
 調子の外れた声でなおも言いながら、彼女が私にのしかかる。
 その腹部から現れた無数の触手は、際限なくカタチを変え続け、いつしか、ヒトに似た何かになっていた。
 腹から、真っ黒い人間じみた上半身を生やした彼女――その姿のおぞましさに、歯を食いしばってしまう。
 最初から分かっていたはずなのに――彼女は手遅れだって。
 最初に現れたミズヒルコ……やつは、彼女とくっつき、その胎内に本体を隠していたのだ。
 いや、今や、すでに彼女はミズヒルコに取り憑かれ、同じモノに成り果ててしまっている。
 そして、この私も――
 いつかは訪れるかもしれないと思っていた時が、今、現実になろうとしていた。
「ダダダダダダダズズズズズズウウウウウウウウウオオオオオオオオオオオオオオオグゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲデデデエエエエエエエエエエエエ」
 厭だ、厭だ、厭だ、厭だ、厭だ、厭だ、厭だ、厭だ――!
 ミズヒルコのおぞましさを知っているがゆえに、私は全身でそれを拒否しようとした。
 だが、黒くぬめる触腕に押さえ込まれた体は、びくとも動かない。
 浅ましくいきり立ち、私に迫る赤い男根。
 その体から立ち上る瘴気じみた匂いを呼吸しながら、私は、絶望に視界が暗くなるのを感じていた。
 ミズヒルコの融合能力の侵食を受け、祓禊済みのコートがしゅうしゅうと白い煙をたてている。
 この薄っぺらな防御を突破された瞬間、私は――
「――針千本のーますっ♪」
 不意に、場違いなほど明るい声が、響いた。
 その聞き慣れた声が誰のものかに気付く前に、無数の風切り音が、殺到する。
「エエエエエエエエエエエエエエエエエェェェェェェェェェェェェ!」
 数え切れないほどの針が――長さ二十センチほどの畳針が、ミズヒルコの体に突き刺さっている。
「エ――!」
 悲鳴が途切れ、一瞬の間の後に、ぶしゃっ! と音をたててミズヒルコは溶け崩れた。
 悪臭を放つ汚水と、キラキラと光る針が、私の体に降りかかる。
「ん、もお〜、桐花ちゃんたらあんまいんだからぁ〜。アラハバキは、最後の最後まで気を抜いちゃダメなんだからね」
 そう言って、声の主は、ケラケラと笑い声を上げた。
 あのミズヒルコが消えて開けた視線の先――鉄骨製の梁の上に、白の小袖と朱色の袴という姿の美少女が腰掛けている。
 いや、その外見は少女なのだが、実態は――
「やっぱり、あーいう強烈なシーンを目にしてのぼせちゃったのかな? ま、そーいうところも可愛いんだけどさ」
 人の悪い笑みをその顔に浮かべながら、ひらりと床に降り立ち、言う。
「あの……助かりました、橘果姉さん……」
 私は、呼吸を整えながら、立ち上がった。
「もー、姉さんってやめてよぉ〜。キッカちゃん、って呼んでほしいのにぃ」
 そう言って、子供っぽく頬を膨らませるが、この人は紛れも無く私の姉だ。
 年も、私より五つは上――なのに、私の五つ年下にしか見えない。
「その……最初から、いたんですか?」
「うん。桐花ちゃん、一人でだいじょぶー、とか言ってたけど、やっぱり心配だったしねぇ」
 そう言いながら、最後の最後まで手を貸そうとしなかったのは、私の顔を立てようとしてのことか――それとも、単に人が悪いからなのか。
 ともかく、ここで恨み言を口にすれば、自分の負けだということは、分かっていた。
「ま、ともかく、こんな感じじゃ、まだ管区を譲るわけにはいかないから。分かってねぇ、桐花ちゃん」
 頭の両側で輪の形に結った髪をいじりながら、姉さんが言う。
「でも、それじゃ橘果姉さんの体が……」
「もぉ〜、二度は言わせないで」
 笑顔を浮かべながら、姉さんが私に歩み寄る。
 草履を履いたその足に、こつ、と何かが当たった。
「あ、残ってる。あの人、ぜんぶ取り憑かれてたわけじゃなかったんだ」
 足元のそれを見て、姉さんが言う。
 黒い汚液にまみれた、白くて丸いもの。
 それは、彼女の崩れかけた頭蓋骨だった。
「…………」
 ――ぐしゃ。
 姉さんは、それを、笑顔のまま、踏み砕いた。
 だいぶ脆くなっていたのだろう。無数のカケラになったそれが、黒く変色し、溶けて形を失っていく。
「――そういうわけだから、これからも、あたしのサポートお願いね。桐花ちゃん♪」
 甘たるい姉さんの声に、私は、背中をぞくりと震わせてしまった。




 帰りがけに、また気配を感じた。
 今度は、振り返ってみる。
 一人だと思ったら、二人連れだった。
 僕と同じくらいの年格好の女の子と、もう少し小さな女の子。
 姉妹だろうか?
 お姉さんはコート姿で、妹さんは――和服?
 きちんと確認する前に、二人は、横道に入り、見えなくなった。
 並んで歩く二人の背中。
「……いいなぁ」
 羨望と言うには淡い気持ちが、僕の口から白い吐息とともに漏れる。
 そして、あの子たちはこんな夜更けにどうしてこんなところを歩いてたんだろう、という当然の疑問を感じた。
 最近、この街では、いやな事件が多い。
 若い女性が失踪してしまうとか、惨殺死体で見つかるとか、そういう事件だ。
 だから、なんとなく、夜中に出歩くと、街全体がぴりぴりしてるような気がする。
 ここは、首都圏にあるごく普通の地方都市で、凶悪犯罪なんて滅多に起きない場所だったのに。
 繁華街では、補導員らしき大人の姿も増えているようだ。
 僕だって、こんなことを繰り返していれば、いつ補導されたっておかしくないかもしれない。
 でも、やはり――こういう見事な月夜には、つい誘われるように、この場所に来てしまう。
 あの日も、とても綺麗な月が、空にあった。
 この場所に横たわり、意識を失う寸前に、その光が両目のレンズを貫き、網膜を冷たく灼いたことを、僕は忘れていない。
 そう、覚えている。
 あの夜のことを。
 そのことを確認するために、僕は、みんなを失ってしまったこの橋の上に来るのだろう。
 吐く息は白く、ポケットの中の指先はかじかんでいる。
「帰ろ……」
 僕は、ぽつりと呟いて、芯まで冷えきっているであろう自分の家へと歩き始めた。


第二章

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