awakening

エピローグ



 ある、週末の昼下がり。
 チャイムを聞いて、マンションのドアを開けた小夜歌は、ちょっとひるんだ様子だった。
 ドアチェーン越しに、遼が立っている。
 小夜歌は、無言でドアを閉めた。
「……ま、当然かな?」
 遼が苦笑いしていると、かちゃかちゃと小さな金属音が響いた後、ドアが大きく開けられた。どうやら、小夜歌はドアチェーンを外していたらしい。

「記憶、戻ったの?」
「ああ、おかげさまでね」
 やや皮肉げな調子で、遼が、小夜歌の質問に答えた。
 リビングに、遼と小夜歌が、向かい合って座っている。テーブルの上には、湯気を立てるコーヒーカップが二つ、置かれていた。
「別に、あんたの記憶を戻そうとして、あんなことしたんじゃないわ」
「へえ……」
 小夜歌の言葉に、遼は声をあげた。
「じゃ、どういうつもりだったんだ?」
「……」
 遼の問いに、小夜歌は答えられない。
「好きで、したこと、か……」
 なんとなくほろ苦い表情を浮かべながら、遼は天井を仰いだ。
「円だったら、みんなで仲良くしたかったから、って言うんだろうな。……あいつ、どこ行ってるんだ?」
「お医者さんのトコ。いろいろ、薬の影響が出ると困るから」
「ああ、村藤センセイのとこか……」
「で、何の用?」
 小夜歌が、堅い声で訊く。
「警戒されてんなあ……当然だけどさ」
 そう言って、遼はコーヒーを一口すすり、続けた。
「誤解を、解いておこうかと思ってな」
「誤解?」
「親父のことさ」
 小夜歌の、綺麗な切れ長の目に、危険な色が浮かぶ。
「聞きたくない」
「聞けよ。お前だって、親父の最期を知る権利と義務があるだろ」
「権利と……義務?」
 小夜歌が、不思議そうに聞き返す。
「ああ。ちと、一人で抱え込んでるのは疲れたんだ。……聞いてくれよ、兄妹だろ」
 そんな遼の言葉に、小夜歌は胡散臭げな表情を浮かべる。
 構わず、遼は語り始めた。



 その夜。
 結城秋水は、驚愕していた。
 亡霊を見る思いだった。
 ハイヤーの運転手が、遼であることに気付いたのだ。
 どのようにして入れ替わったのか。
 もし、最初から遼が運転していたのだったら、何故、今まで気付かなかったのか。
 すでに、ハイヤーは市街地を抜け、対向車もまれな人気のない山道に入っている。
 秋水の顔に、死相に似た表情が浮かぶ。
 そもそも、このところの秋水の顔色は尋常ではない。それは、愛妻を二度も亡くしたことによるものなのか、それとも、円との――いや、亡き妻との毎晩の荒淫によるものか。
「親父」
 車を運転しながら、遼は後部座席の父親に声をかけた。
 その声にも、ミラーに写る顔にも、表情らしい表情は、ない。
「美由紀さんを、死なせたね」
 淡々と、ただ事実を確認するように、遼が言う。
 秋水は、大きく喘いでいた。このところ、めっきりやつれた頬が、神経質そうにびくびくと震えている。
「そのことは、いいんだ……。いや、よくはないけど、俺が言うべきことじゃない」
 遼の声の調子は、変わらない。
「なぜ……」
 外の雨は、止む様子を見せない。暗い闇の中、ただ、小さな水滴が間断なく落ちつづけている。
「なぜ、小夜歌でなくて、円を選んだんだ?」
 ともすれば、フロントガラスを叩く雨音で聞こえなくなりそうなささやき声で、遼は続けた。
「わざわざ女にしてまで、なんで円を選んだ? 小夜歌が、それをどんなふうに感じると思ったんだ?」
 返事は、ない。
 沈黙の中を、ただワイパーの音だけが、往復する。
 と、突然、秋水は獣のような声をあげた。追い詰められた手負いの動物の声だ。
「ぐッ!」
 遼の首に、後から、何か細い布が巻き付いていた。秋水のネクタイだ。
 凄まじい力で、遼の首にネクタイが食い込む。
 遼は、必死で、ネクタイと首の間に手を差し込んだ。ハイヤーが、狭く曲がりくねった下りの山道を、危険な速度で蛇行する。
「くうっ!」
 遼は、急ブレーキをかけながら、片手でハンドルを切った。今にも車体が崖下に身を躍らせそうになったのだ。
 ハイヤーが、勢いを殺しきれず、大きく後部を振りながらスピンする。
 そして……。



「車は、横腹を木の幹にぶつけて、止まった」
 遼は、半ば目を閉じながら、続けた。
「シートベルトのせいかどうか、俺は大した怪我もなかった。しかし……親父にとっては、ドア越しの直撃だった」
「……」
 小夜歌は、先程から、口を挟もうともせず、じっと黙って聞いている。
「それで、俺は親父をほっといて、その場から逃げた。まあ、俺が殺したようなものだが……直接、手を下したわけじゃない。……その後、俺は、あるツテを使って、ことを内々に始末するようにした。もともと、警察の解剖でも、事故死ってことになってはいたんだけどな」
「……」
「話はそれだけだ。円には、お前の方から伝えてくれればいい。別に話さなくてもいいけどな」
「それで……」
 小夜歌は、やっと口を開いた。
「ん?」
「それで……そんな、お節介なこと、あいつに訊いて、どうするつもりだったの?」
「ああ、なんで円を選んだのかってことか」
 遼が、困ったように頭を掻く。
「返答次第では、殺そうと思ってたよ。できたかどうかは分からんがね」
「ふうん……」
 小夜歌は、そう言って、ちょっと笑った。
「やっぱり、お節介」
「そうか?」
 遼も、かすかに、口元に笑みを浮かべる。そして、すっ、と立ちあがった。
「じゃあな。ごちそうさん」
「あ……あの……」
 小夜歌が、帰りかける遼の背中に、声をかける。
「今日は……あたしを、抱いてかないの?」
「さすがに、今日は気分じゃないからな」
 くくっ、と遼は、笑い声をもらす。
「また、改めてな、小夜歌」
「うん……お兄ちゃん」
 妙にしおらしい声で、小夜歌が言う。
「いつも、そんな風に素直だといいんだけどなあ」
「そうはいきませんよー、だ」
 何か吹っ切れたような口調でそう言った後、小夜歌はおずおずと続けた。
「あ、あの……由奈さんに、あたしが謝ってたって、伝えてくれる?」
「ああ」
 そう言って、遼はマンションを出た。





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