第四話
『最期の試練』
第四章
「昨夜、何かあったか?」
車の中で、運転席の紅葉さんがそんなふうに訊いてきた。
車は、何だかコロコロした感じのデザインの外車だ。有名なドイツのメーカーのエンブレムが、ちょっと不釣り合いな感じで、そういうところも可愛い。
紅葉さんには、なんとなくスポーツカーとかが似合いそうな気がしたので、ちょっと意外だった。
「――少年とのことだぞ」
あたしが、助手席で答えあぐねていると、紅葉さんがそう畳み掛けてくる。
「ん、えと、何も無かったですよ」
「何も無かった……。少年の方は、何かしたかったんじゃないのか?」
「拒否しました」
「未遂か……」
「異常な状況の中で始まった関係は長続きしないって言いますしね」
「そうかもしれんな……」
紅葉さんが、ハンドルを握ったまま、しばし考え込む。
「まあ、自分を安売りしなかったのだったら、誉めておこう。だが、惜しいと思っているなら娘の負けだぞ」
「……勝ちとか、負けとか、そういう問題じゃないような気もしますけど」
「まあ、そうかもしれんが」
具体的にどういうことがあった、という話をすっ飛ばして、そんな会話をする紅葉さんとあたし。
「しかし、勝負事として考えれば元気が出るぞ」
「元気、ですか」
「そうだ。元気があれば何でもできる」
どこかで聞いたようなセリフを、紅葉さんが真顔で言う。
「むぅ〜」
あたしは、流れていく景色を見つめながら、唸った。
昨夜のことは、あたしの中で、きちんと整理できていない。
譲木くんと仲直りをすべきなのか、そもそも仲違いをしているのか、それさえも、あたしには分かってないのだ。
そもそも――あたしは譲木くんとどうなりたいんだろう?
「考えがまとまらんようだな」
「――はい」
あたしは、正直に返事をした。
「睡眠が足らんのだな」
「関係あるんですか?」
「人は夢を見ながら記憶を整理するからな。……寝てないんだろう?」
「そーいう体質なんです」
「聞いている。気の毒に」
そう言って、紅葉さんは、片手でサマージャケットの懐から何かを取り出した。
それは、薬包に入った粉薬のようなものだった。
「娘の体質のことをあの医者に聞いてな。昨日の夜、病院の中にあった薬を使って調合しておいた。すこしは眠れるかもしれん」
「紅葉さん、薬剤師の資格もってたんですか?」
「気にするな」
「しますよ!」
「一応、あの医者の立ち会いも受けてる。何なら電話で確認したらどうだ?」
気を悪くした様子も無く、紅葉さんは言った。
「いいです。そこまで紅葉さんを疑ったりはしてませんから」
そう言いながらも、あたしは、薬を受け取った。
そして、意を決して、水無しで薬を飲み込む。ちょっとコツが要るけど、この特技、こーいう時に便利だ。
う、苦い。
「……どうだ?」
しばらくして、紅葉さんが訊いてきた。
「んー……なんか、リラックスしてきました……」
「なら、少しでも眠っておけ。着いたら起こしてやる」
「ふゎい……」
驚くべきことに、ごく自然な眠気が、あたしの瞼を重くしてる。
もし、これが紅葉さんの能力によるもんだとしたら……すごいことだ。
あたしは、いたく感心しながら、少しずつ眠りの世界へと落ちていった。
寝不足の時の夢って、まとまりが無い。
カラーでなく、白黒のイメージが、目まぐるしく乱舞する感じ。
いつ見たのかはっきりしない風景のかけらが、くるくる回りながら、視界の中央から端っこに動いていく。
あたしは、そんな記憶の断片から、どうにか意味を拾い出そうとあがいていた。
そして――あたしは、それを見つけた。
着物を着た女の人が、小さな少女に馬乗りになって、包丁を振り回している。
イタイ――イタイ――イタイ――イタイ――
女の子が、感情を喪失したような声で、泣いている。
これは……このビジョンは……。
着物の女の人は、上品な笑みを浮かべているようにも、悪鬼のような形相をしているようにも見えた。
時々、犬の顔をした怪物のようにも、真っ黒い得体の知れないカタマリのようにも見える。
赤い血が零れ、溢れ、流れ、飛び散り続ける。
これは、三倉さんの終わらない悪夢。
あの女の子は、心の檻に捕らわれた三倉さんだ。
その無表情な顔は血と涙にまみれている。
けど――
違う。
女の子の顔が、違っている。
そうじゃない。変わってるんだ。見ているうちに、女の子の造作が変化していってる。
ヤメテ――ヤメテ――ヤメテ――ヤメテ――ヤメテ――
あれは……橋本さん……?
そう思った時には、女の子はまた違う顔になる。
誰――?
あたしは、思わず口にしていた。
ダレぇ――?
知らない顔の女の子が、おうむ返しに言う。
ごぼっ、と口から鮮血が溢れる。
ダレぇ――ダレぇ――ダレぇ――ダレぇ――ダレぇ――ダレぇ――
ああ。
いやだ。
こんなの見たくない。
だって――
知らない顔の女の子の顔が、次第に見知った顔になっていって――
お母さん――?
いや、違う。
あれは――
アレハ――アレハ――アレハ――アレハ――アレハ――アレハ――アレハ――
――アタシダ。
「うわあっ!」
あたしは、ものすごい声で叫んでいた。
あたしの体を、何かが押さえ付けて――
って、何だ。シートベルトじゃん。
「見事にうなされてたな」
紅葉さんは、渋い顔で言った。
「いささか軽率だったな。ベッドで寝る前に渡せば良かった。反省する」
「あ、いえ……えっと……」
正直――紅葉さんに怒りを覚える前に、その顔を見れたことに、ほっとしてしまっていた。
車は、もう路肩に止まっていた。目的地に着いたようだ。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
そう言って、あたしは、ふーっ、と溜め息をついた。
「紅葉さん」
「何だ? 恨み事なら聞くぞ」
「そんなんじゃないです」
あたしは、シートベルトを外した。いきなり胸が楽になる。
「D.D.って、一人きりじゃできない仕事ですね」
「――そうだな」
紅葉さんは、真面目な顔で肯いた。
「やはー、これが大学ですかあ」
あたしは、思わず声を上げてしまっていた。
ここは、首都圏郊外の総合大学だ。カレッジじゃなくてユニバーシティ。今のあたしの成績だと、ちょっと合格圏内には入らない。
歴史のある学校だからなのか貧乏だからなのか、建物はちょっと汚め。でも、敷地はいやってほどだだっぴろい。まるで、公園みたいだ。
もちろん、見学に来たわけじゃない。捜査の一環である。
ここは、三倉さんや橋本さんが通ってた学校なのだ。二人は、ここで同じ学科だった縁で、友達になったらしい。
二人が卒業したのは、4年前。だから、学生さんの中で、あの二人のことを知ってる人がいるとは考えにくい。
それでも何とか聞き込みとかできればと思ってたけど……これだけ大きな学校だと、ちょっと雲をつかむような話だ。
「えーっと、どうしましょうか?」
あたしは、隣の紅葉さんに訊いてみた。
ちなみに、今日も乾さんや譲木くんとは別行動だ。あの二人は、現場の方に行っている。
「二人が在籍していた学科の講師たちに当たってみるのが妥当だろうな」
紅葉さんは、火の点いてないタバコをくわえたまま、言った。
「横町の長屋じゃないから、一人一人に話を振っても埒があかんだろう」
「でも、何て言って?」
「出たとこ勝負かな」
そう言って、紅葉さんは、すたすたと歩き始めた。すらりと長い足が、小気味良く交差する。
「え、えと、出たとこ勝負って、あたしはどうしてたらいいんですか?」
「横で嘘泣きでもしてるといい」
「うそなきー?」
「できないのか? 女の癖に」
「したことないです」
「いい機会だ。身に付けとけ。修羅場できっと役に立つ」
そう言って、紅葉さんは、奥へ奥へと進んで行く。
目的地は、文学部棟。と言っても、文学部だけでいくつか建物があるらしい。その中の、心理学科に、三倉さんと橋本さんは通ってたという話である。
ラフな格好をした学生さんたちとすれ違いながら、あたしは、心の中で嘘泣きのシミュレーションを始めてみた。
紅葉さんはジャーナリスト、あたしは、何と橋本さんの妹ということになった。
あたしの依頼を受け、紅葉さんがこの事件について調査を始めてる、という“設定”である。もちろん、ぶっつけ本番だ。
無茶だと思ったけど、学校の事務局の人は紅葉さんのウソ名刺を信用しちゃったらしい。
で、幸いにも、橋本さんのゼミの担当講師の人とは、事務局の人の案内ですぐに会うことができた。そして、もっと幸いなことに、その人は男の人だった。
もし、相手が女の人だったら、あたしの嘘泣きは見破られてたと思う。根拠は無いけど。
「橋本さんは、確かに、自殺をするような人とは思えませんでしたね」
研究室の椅子に座ったまま、講師さんは、真面目そうな顔で言った。年は30代だか40代だか……よく分からない。
「ゼミに入ったころは少しおとなしすぎるように見えましたが、すぐに打ち解けたようです。先程お話の出た三倉君とは特に仲が良かったですね」
「他に、お友達は?」
「うーん、僕には分からないですねえ」
ありゃりゃ、外れか。
「ただ、二人とも、何か小さなサークルに所属していたと思います。カウンセリングやセラピーに関する研究や実践を目的としたものだったと思いましたけど」
「そのサークルは、今は?」
「彼女たちが卒業したあとは自然消滅ですね。新人の勧誘とかはしてなかったですから」
「なるほど……。名簿とかを見せていただくことはできますか?」
「そういうのを仕切ってるのは学生たちの自治局ですが……無理でしょうねえ。何しろ個人情報ですから」
あう、いいかげんなようで、けっこう厳しい。
「在籍中に、何かトラブルに巻き込まれたような話は聞きましたか?」
「いえ、真面目な子でしたから、それは無いですね」
講師さんが、言下にそう答える。
「真面目すぎて、一人で抱え込むようなこともけっこうありましたが……でも、三倉君と友達になってからは、そうでもなくなりましたね。こういうことは、ご家族の人の方が詳しいかもしれないですけど」
そう言われて、あたしは、鼻をすすりながらハンカチで涙を拭いて見せた。講師さんが、気の毒そうな顔をする。
いくら橋本さんを殺した奴を突き止めるためとは言え……あたし、最低かも。
そう思うと、本当にちょっと泣けてきてしまった。
橋本さんのための涙じゃなくて、あたしの自虐の涙である。やっぱ、最低だ。
「……大変参考になりました。私は、現在進んでいる警察の捜査には、かなり疑問を抱いています。もし何か思い出されたら、名刺の番号にお電話してください」
「分かりました」
講師さんが、深く肯く。
紅葉さんとあたしは、お礼を言って、研究室を出て行った。
「自治局か……。そこの名簿を見ることができれば、かなり捜査は進展するな」
紅葉さんは、にっこりと笑みを浮かべながら、言った。
「でも、見せてもらえないみたいですよ?」
「場所さえ分かれば簡単だ」
「まさか、盗むんですか?」
「ん、その手もあるな」
真顔で、紅葉さんが言う。
「が、私達はもっとスマートに行く。暴力的手段は最後の切り札だ」
「どうやってそんな……」
「娘、少しは頭を使え。脳は血液を冷却する器官ではないぞ」
そ、そんなこと言われても。
「そうだな……方法を思いついたら、アメをやるぞ」
「いりませんよ、そんなの」
「そうか。なら、分からなければムチだ」
「それもイヤです!」
「教育とはかくも難しい。況んや、子育てにおいてをや、だな」
本気なのか冗談なのか、紅葉さんは天を仰いで嘆息した。
「……じゃあ、ヒント出してくださいよ」
「ヒント?」
紅葉さんは、そう言って、うーんと考え込んだ。
そして、ずびし、とあたしの顔を指さす。
「ヒントは娘、自分自身だ」
「あたし?」
「そうだ。これ以上は妥協できん」
「うー……」
あたしは、小さくうなった。アメに興味は無いけれど、ムチでしばかれるのは遠慮したい。冗談だとは思うけど、この人ならやりかねない、とも思う。
「えぇーっと――」
ぐるぐるぐるぐる、頭の中を考えが旋回する。
「つまり――あたしの力だけを使って――みたいな感じですか?」
「そんな感じだ」
「あたしの、力……」
あたしはD.D.だ。障壁を張ってそれを反転させ、叩きつけることで攻撃ができる。でも、そんなことしたら相手は死んじゃいかねない。
それから、次元の歪みを感知することもできる。これは、事件を調査するのにはいろいろ重宝するけど、名簿を盗み見るようなことには使えない。透視や千里眼じゃないのだ。
だとすると、結界? 結界を張ることで、何ができる?
結界は、精神と物質の透き間にできたあぶく。現実をコピペした、閉じた小さな世界。
コピー……アンド……ペースト……。
――コピー!
「コピー! コピーでしょ? コピーですよね、紅葉さん!」
あたしは、でかい声でそう喚いた。覚醒期なんで見境が無くなってるのだ。
紅葉さんは、あたしの言ってることが分かったのか、にっこりとほほ笑んだ。
自治局っていうのは、学生棟の片隅にある、開け放しの小さな部屋だった。
物陰から、その自治局が入ってる部屋を視界に収め、精神を集中させ――世界をスキップさせる。
それで――それだけで、世界を小さく切り取り、複写することができるのだ。
もう、ここは結界の中。
あたしは、無人の――いや、正確にはあたしと紅葉さんしかいない学生棟の廊下から、自治局の部屋に入った。
そして、キャビネットに並んだファイルの背表紙を見る。
「えーっと……サークル名簿……ずいぶんたくさんありますねえ」
「登録年順に整理されているようだな」
「ですね。えーっと、だとすると、ここらへんかな?」
あたしは、適当な年度のファイルを取り出し、ぱらぱらとめくった。
決まった書式に書かれた表が、サークルとか同好会とかの名前順に、並んでる。
手書きだったり、コピーだったり、パソコンで書かれたもののプリントアウトだったり、いろいろだ。
ほどなくして、あたしは、目的の名前を見つけた。
「“サークルせらふぃむ”……ヘンな名前ですね」
「セラフィムは、熾天使セラフの複数形だ」
「ふーん、天使ですか……。もしかして、セラピーとかけたんですかね?」
「かもな」
紅葉さんは、そっけなくそう言った。
「えーっと、活動内容は……カウンセリングやセラピーの研究、実践……マジメだなあ。あ、福祉関係のボランティアとかもしてたみたいですね」
「感心なことだ」
ボランティア団体とかお役所に提出するためか、名簿には、履歴書のコピーなんかがホチキスでとめてあった。確かにこれは部外者にそうホイホイ見せられるもんじゃない。
「橋本さんや三倉さんの履歴書もありますね。学生時代のだけど」
「ふむ……では、他の所属者の住所を控えて、片っ端から当たってみるか」
「また嘘泣きとかするのイヤですよ」
そんなことを言いながら、あたしは、ある履歴書に目を留めた。
「…………?」
顔写真に、見覚えがある。
いや、絶対に会ったことなんてあるわけないんだけど、でも、この顔は――
「……娘、どうした?」
「え、えっと……」
なぜか、肌にじとっと汗が滲み、体が細かく震える。
これは……この人は……。
「あの子だ……」
夢の中で、次々と顔が変わっていった女の子。その中で、唯一、あたしが知らなかった顔。
三倉さんでも、橋本さんでも、あたしでも、お母さんでもなかった顔。
血まみれになり、声を上げながらも、まるで人形のように無表情だった――その、顔。
履歴書の名前の欄を見る。比留間美玲、と、そこには書いてあった。
「こ、この人ですよ――」
あたしは、履歴書の写真のところを指差しながら、紅葉さんに言った。
「何……?」
「三倉さんの……いえ、あたしの夢の中に出てきた女の子、この人だったんです」
「娘は、この――比留間美玲とかいう者と、面識があったりはしないな?」
「もちろんです」
「にもかかわらず、娘の夢の中に、この学生が現れた――」
言いながら、紅葉さんは、比留間さんの履歴書と当時の名簿を見比べた。
「初代会長、となっているな」
「そ、そうですね……」
「これは、当たってみる必要があるな」
「はい」
あたしは、震えを止めようとぎゅっと歯を食いしばってから、肯いた。
合流する前に、電話で、乾さんと譲木くんに、ことの経緯だけ話した。
ちょうど乾さんも、三倉さんや橋本さんの交友関係を洗ってるうちに、比留間さんという名前が浮かんできたらしい。
何でも、その比留間さんも、最近――3ヶ月前に亡くなってるというのだ。
で、これは怪しいということで、どうにか住所なり何なりを調べようとしているところに、あたし達からの電話が来たということなのである。
そして、あたし達は、比留間さんの住んでいたマンションの前で、合流を果たした。
もう、日が暮れている。
「どうしたもんかな……」
乾さんは、比留間さんが住んでいたという地上7階あたりを見上げながら、つぶやいた。
「とりあえず入ってみますか?」
譲木くんが、あたしの方を見ないようにしながら、言う。ちぇ、いくじなし。
あたしは、黙ってマンションの方を見た。
格別ボロっちいわけじゃないけど、新しくもない。ふつーのマンションだ。
最新式の、住んでる人にインターホンで話さないと入れてもらえないようなマンションだったら、潜入は面倒になるけど、こういう所だったら、少なくとも部屋の前までは行けるだろう。
そうなれば、あとは簡単だ。何しろ、乾さんはピッキングとか平気でしちゃう人なのだ。D.D.をやってない普段は何して食べてる人なのか、すんごい気になる。
「……表札は、“比留間”のままですね」
あたしは、中を覗き込んで、エレベーターホールの前に備え付けられた郵便受けを見ながら、言った。
「まだ遺族が整理していないということかな」
「比留間美玲はここに一人で住んでいたはずだ。何でも駆け出しのセラピストだったらしいな」
紅葉さんに、乾さんが言う。
「なら、家族はいないはずか……」
「だとしたら家捜しだな。で、もし万一家族がいたら聞き込み。それでいいだろう」
乾さんの言葉に、全員が小さく肯く。
で、あたしたち4人は、ちょっと狭苦しいエレベーターで、7階まで上がった。
上昇していたエレベーターが止まり、ドアが開く。
外廊下に出た瞬間に――異様な気配を感じた。
「あの……」
言いかけるあたしに、夜だというのにサングラスをかけたままの乾さんが、肯きかける。
譲木くんや紅葉さんも、緊張した顔だ。
みんな、感じてるんだ。
この、禍々しい時空の歪みを――
「この近くで、繰り返し魔術が使われたな」
「魔術――?」
紅葉さんの言葉に、乾さんが口をへの字に曲げる。
「おそらく、召喚系の魔術だ。異界への通路を強引に開いた痕跡がいくつもある」
「そこまで分かるんですか?」
「年の功だ」
質問したあたしに、紅葉さんが答える。って、どう見ても三十代半ばなのに……。
比留間さんが住んでいた部屋の前に、来た。
問題の気配――時空の歪みは、この部屋を中心に広がっている。気を抜くと、気持ちが悪くなっちゃいそうなほどの歪みだ。たぶん、普通の人でも、この部屋の前を歩くとき、背筋にいやな感じが走るだろう。
「当たりくじだったようだな」
そう言いながら、乾さんは、懐に手を突っ込み、もう片方の手でドアノブを握った。
乾さんのごつい手が、ドアノブをひねる。
「――開いてる」
言って、乾さんは、ドアを開け放った。
そのまま、土足で部屋に上がりこむ。
すぐその後に紅葉さんが続き、譲木くんとあたしがその後を追った。
部屋の中――カーペット敷きのリビングの方から、かすかな明かりが漏れている。
乾さんは、もうしっかり拳銃を懐から出して、リビングに入った。
あたしたちも、それに続く。
「――!」
そこは、異様な場所だった。
ごく普通のマンションの一室――その、床といわず、壁といわず、天井にまでさえ、赤黒い何かで奇妙な文様が描かれている。
その上、テーブルやテレビ、可愛いデザインのオーディオセットなんかが脇にどかされ、代わりにいくつもの真っ黒い燭台が立てられていて、その上で、蝋燭がオレンジ色の火を燃やしているのだ。
さらに――これが一番最悪なんだけど――動物の死体が、あちこちに散乱している。
死体は、からからに干からびて、ミイラみたいになっている上に、首が無かった。要するに、あの動物の顔をした怪物――ダイモーンを呼び出すためのイケニエってのが、この死骸なんだろう。
そして、そんな部屋の真ん中に――薄手のコートを着た男の人が、こちらに背中を向けて立っていた。
「魔術師――!」
紅葉さんが、鋭い声を上げる。
後姿だけでも間違えようがない。例の、一度は結界の中に閉じ込めたあの人だ。
つまり――あたしたちは待ち伏せされてたの?
「……比留間美玲の身内の者か?」
乾さんが、びっくりするくらい落ち着いた声で、訊いた。
「父親だ。――いや、父親だった者、と言うべきかな」
コートの男の人が、しわがれた声で言った。
「わが名は、比留間刑天。しかし、その名前も、もはや意味は無い」
「お前、何故D.D.を……」
「美玲は、出来損ないだった」
コートの人――比留間刑天さんの独白が、乾さんの言葉を遮る。
「ある程度、人の心を読むことはできても、術者としての素養には全く欠けていた。まあ……そのことを残念には思わなかったがな。むしろ、安堵したのが本当のところだ」
「…………」
「美玲は、代々伝わる術を憶えようとはしなかったし、俺もそうさせるつもりはなかった。ごく普通の人間として生きてくれるなら、それでいいと思ったのだ。しかし――美玲は、他人と不用意に心を重ね過ぎたのだろうな」
「まさか……誰かのナイトメアが、お前の娘に伝染したというのか……?」
「そうだ」
刑天さんが、言った。
その肩が、震えているように見えるのは、蝋燭の光が揺らめいているからだろうか?
「美玲は、お前たちが夢魔やナイトメアと呼ぶ憑依体に侵され、その脆弱な心を貪り食われ、そして――死んだ。俺はそれを、ただ手をこまねいてみているしかなかった」
「…………」
文字通り――刑天さんには、娘さんに何が起こってるのか見えていたのだろう。刑天さんも、あたしたちと同じように、時空の歪み――DEMONの影が見えるのだ。
でも、刑天さんには、あたしたちみたいに、人の夢の中に入る力がなかった。
「だが、その憑依体は、あろうことか美玲の精神内で繁殖し、何人もの周辺の人間へ移り棲んでいた」
「それで……ナイトメアがさらに繁殖する前に、憑依されている人間ごと殺そうとしたってわけか」
「そうだ」
しわがれた声が、部屋に静かに響く。
「お前たち――D.D.と言ったな」
「ああ」
「お前たちを襲ったのは。私のミスだ。てっきりお前たちが、あの憑依体を使役している術者かと思ったのでな……。悪いことをした」
「――今更そんなこと言われてもな」
乾さんは、怖い声で言った。
その手は、拳銃を握ったままだ。
まさか……乾さん、この人を……?
そんな、だって……この人は、娘さんをナイトメアに殺されて……それを、どうすることもできなくて……。
もちろん、三倉さんを襲ったり、橋本さんを死なせたことは、許されることじゃない。あたしたちD.D.の中にも、犠牲者は出てるかもしれない。
けど、そのほとんどが誤解に基づいたことだとするんだったら、あたしは――
あたしは、この人とは戦えないよ――!
「お前の言いたいことは、分かる」
刑天さんが、乾さんに言った。
「その一方で……俺にも、わだかまりはある。俺が持っていなかった、娘を救えたかもしれない力を、お前たちが持っているということへの嫉妬。それに……本当にお前たちに任せていいのかという不安がな」
「え……?」
この人、何を言ってるの?
そんな……今の言い方じゃ、まさか……。
「最期の試練だ――お前たちの力、試させてもらう」
刑天さんが、振り返った。
「――っ!」
驚きのあまり、声も出ない。
刑天さんの姿は、前に見たときとまるで違っていた。
その口元からは牙がのぞき、額からは二本の角が生えている。
背中から生えた蝙蝠みたいな一対の翼がコートを跳ね飛ばし、そこから現れた体は、まるで悪魔みたいに真っ黒で――
ダイモーンだ!
この人、まさか、自分自身を犠牲に――!
「娘、結界を張れ」
紅葉さんが、肩越しに振り返り、あたしに小さな声で言った。
「で、でも……」
「この魔術師は、懺悔のために話をしていたわけじゃない。さっきまでのは――遺言だ」
「――!」
刑天さんが、跳躍する。
あたしは、結界を張った。