第三話
『足元の悪夢』
第一章



 あたしは、金色の野原に佇んでいた。
 見渡す限りの、黄金色である。
 小麦だろうか? いっぱいに穂を実らせた麦畑が、うねるような緩やかな丘の上、地平線まで続いている。
 空はオレンジ色。夕日が、目の前の風景をますます金色に染めている。中天はすでにスミレ色に染まり、白く細い月が傾いてる。
 風が吹くと、目の前の麦がなびく。まるで、金色の海が波うってるみたい。
 はるか遠くには、紫色の山並み。そして、手前の方には、ポプラの木が半ばシルエットだけになって、一本ある。
 わけもなく、涙がこぼれそうになる風景だった。
 腰までを麦の海に隠しながら、あたしはぼんやりとその風景を眺めている。
 ここは……どこだろう?
「如月さん」
 呼ばれて、振り返ると、譲木くんがいた。
 黒いシンプルなデザインのぴったりしたTシャツに、軽そうな麻のスラックス。右手に、細い銀色のブレスレットなんかしてる。
 かすかな風に、彼の柔らかそうなオールバックの髪がなびいていた。
「譲木、くん……」
 どこか遠い、あたしの声。
「これが……僕の、夢」
 かすかな、はにかんだような笑みを浮かべながら、譲木くんが言う。
「じゃ、“外”で」
 短くそう言って、譲木くんは、風に溶けるみたいに、ふっといなくなった。
「あ……」
 待って、という言葉を、あたしは慌てて飲み込んだ。
 また、この麦畑に一人になる。
 見渡す限りの一人ぼっち。
 なんだか、子どもみたいに声をあげて泣きたくなった。
 そして――



 ちょっと、時間を遡ろう。



 夏♪
 夏休みだ。
 たとえ睡眠障害だろうがD.D.だろうが、夏は、夏であるというだけで嬉しい。梅雨が明け、テスト期間も終わったということもあって、あたしは際限なくハイになる。
 この時期は、なぜか、あたしは例外なく覚醒期になる。今年なんか、終業式の日が、いつもより短い睡眠期の最終日で、夏休み一日目にはすっかり覚醒期に入ってた。現金なものだ。
 そしてあたしは、例年、三週間ぶっ続けではしゃぎ回り、夏の終わりで力尽きたように一週間眠るのである。
 人は、それを夏バテって言うんだろうけど、あたしのは、あくまで睡眠障害。
 そして、目を覚ますと、明日から二学期だってことに気付き、がっくりとなる。
 毎年毎年、ずーっとそんなコトの繰り返しなわけ。
 でも、大学生は九月まで夏休みだっていう話だ。うう、新しい世界が開けそう。
 さて。
 終業式から数日後、あたしとナナミは、連れ立って学校から二駅のトコにあるショッピングモールを歩いてた。頭上で、太陽がぎらぎら輝いてる。
 ナナミは、動きやすそうなタンクトップに、太もも丸出しのショートパンツ。それに、なんだかごつごつした重そうな靴を履いてる。私服のこいつは、どう見たって中学生だ。
 そんなカッコのくせして(いや、似合ってるけどさ)、ナナミはあたしの服装にケチをつける。
「ユッキさあ、もーちょっと、その服はなんとかならないの?」
 あたしが来てるのは、ちょっとだらんとしたブルー系統のワンピースのサマードレス。
「いーじゃないか。ラクなんだよ、これ」
「でれでれしてて、趣味じゃないんだよ」
「ナナミの趣味で、服を選ぼーとは思わないね」
「あ、そーですか」
 ナナミは、小生意気な態度でそう言う。
 しばしの、あまり友好的でない沈黙。
「……ブンちゃん、だいじょぶかな」
 そして、ナナミはいつになく気弱げにそう言った。
「うん……」
 あたしも、無意味に肯く。ナナミとやりあった後は、仲裁者としての彼女の不在を、いつにも増して感じてしまう。
 ブンちゃんは、終業式の日、学校を休んだ。
 これは、実はとても珍しいことだ。ブンちゃんと言えば、日本中の先生が夢に見そうなほどの優等生。学業優秀にして品行方正。まず滅多なことで学校を休んだりはしないのに。
 だけど、そう言えば、一学期の終わり、ブンちゃんは何となく浮かない顔だったような気もする。睡眠期のことなんで、よく憶えてないんだけど。
 欠席の理由を、担任の小野寺先生は話したはずなんだけど、コレもあたしはよく憶えてなかった。前にも言ったけど、終業式の日は、睡眠期のちょうど終わりだったのだ。
 でも、ナナミによると、体調不良としか言ってなかったって話。
「ブンちゃんに直接聞いたんじゃないから、よくわかんないけどさ」
 ナナミが、プラスチックでできてるみたいなちっちゃな店の店頭で、アイスなんかを注文しながら、言った。
「ユッキは、何か聞いてない?」
「何を?」
「だからァ……だから、何だろ?」
 あたしは、肩をすくめた。
 でも、ナナミの言いたいことは、実は分かってる。
 ブンちゃんが、学校を休んだ理由。つまり、ブンちゃんの体調のこと。
 ここのところ、ブンちゃんちに電話すると、いつも出るのはブンちゃんのお父さんなのだ。静かな、優しそうな声で、ブンちゃんがまだ臥せってることを、困ったように告げる。
 ナナミに訊いても、同じだった。
 電話にも出られないくらい、悪いんだろうか?
「入院は、してないみたいだったけど」
「ブンちゃんのお父さん、お医者さんだからねえ……自分ちで、面倒見ちゃうかもね」
 ナナミが、つまんなそーな顔で、それでも三段重ねのアイスクリームなんかぱくつきながら言う。
「へ、そーだったっけ?」
「ユッキの薄情モン」
「だって、聞いてないもん」
 ブンちゃんとは高校に入ってからの付き合いなんで、まだ知らないことも多い。
「おーかた、その話の時は寝てたんでしょ」
「だろうね」
 あっさりと、あたしは認める。
「あたし、ブンちゃんのお父さんに、会ったことあるよ。けっこうカッコよかった。ちょっと、気弱な感じだけど」
「ふーン……。そう言えば、ブンちゃんのお父さんとお母さんは、離婚してたんだっけ?」
「そう」
 かりかりと白い歯でコーンをかじりながら、ナナミが言う。
「そっか……。あのさ、ナナミ」
「ん?」
「ブンちゃんち、お見舞いに行こっか」
「今からー?」
 ナナミが、素っ頓狂な声をあげる。
「特に予定もないでしょ」
「だって、映画観んじゃなかったの?」
「映画は逃げやせんよ、お嬢さん。さ、行こ行こ」
「ん、まあ、そっかなァ」
 なんとなく釈然としない顔のナナミを引っ張るようにして、あたしはブンちゃんの家に向かって出発した。



 前に一回か二回来た、ブンちゃんの家。表札に、「若槻」ってきちんと書いてある。
 洋風の、平均よりおっきめの家だ。まだ新しい感じ。コンクリートの塀にがっちり囲まれていて、その中にはきちんと庭があった。マンション住まいのあたしとしては、ちょっとうらやましい。
 あたしの隣のナナミは、なんとなくもじもじしてる。
 あたしだって、突然でどーかな、と思わないではないけど……なんとなく気になったのだ。気になると、もう自分でもどうにもならない。覚醒期のあたしは暴走気味なのだ。
 インターフォンのボタンを押す。ぴんぽーん♪ という上品な音。
「どなたでしょうか?」
 カメラ付きのインターフォンが、穏やかな男の人の声で喋った。
「えっと、如月です。文さんの友人の……」
 「アヤさん」と言ったときに、ちょっと引っかかってしまった。でも、さすがに、家の人に「ブンちゃん」とは言えない。
「ああ、よく来てくれました」
 優しそうなその声は、でも、どこか困ってるみたいだった。
「ただ、文は今ちょっと……」
 うー。心配。ブンちゃん、ホントに大丈夫なんだろうか?
 と、インターフォンの向こう側で、誰かが何か話してるみたいだった。
「?」
 あたしとナナミは、思わずちらっと顔を見合わせる。
「……まあ……そういうことでしたら……」
 ブンちゃんのお父さんの声が、かすかに聞こえる。何か、説得されたみたい。
「あの……すいません」
 そして、遠慮がちに、あたしたちにインターフォン越しに話しかけてくる。
「お二人に頼みたいことがあるんですが」
「へっ?」
 思わず声をあげるあたし。ナナミも、きょとんとそのおっきな猫目を見開いてる。びっくりした仔猫の顔。
「そのう……文を、助けてほしいんです」
 なんだか、みょーちきりんなことになった。



 ブンちゃんの部屋は、綺麗で、落ち着いてて、静かだった。
 濃い茶色のフローリングの床に、ちょっとアーリーアメリカンっぽい雰囲気に統一されたインテリア。おっきな本棚に、大小様々な本が整然と並んでる。
 さて、その部屋の奥に、木製のベッドがあって、そこに、ブンちゃんは寝てた。
 当然、メガネは外している。閉じられたまぶたをふちどるまつげが、綺麗にカールしてた。
 美人だなあ。
 メガネしてるときのブンちゃんにも独特のよさがあるんだけど、やっぱあのメガネは野暮ったかった。だから、それを外すだけで、ずいぶんと印象が違ってくる。目を閉じてるせいか、なんか憂いを含んだ感じ。
 ちょこっと目を開けて、笑ってみてほしい。そんなふうに思ってしまう。
 でも、状況は、そんな呑気なもんじゃなかった。
 毛布から出されたブンちゃんの右の肘の内側に、点滴の針が止められてる。
 そしてチューブが、ブンちゃんのベッドの傍らに立てられた点滴台にセットされた、黄色い液体の入った透明な袋に伸びている。
「どうも、無理を言ってすいません」
 ちょっと茫然となってるあたしとナナミに、ブンちゃんのお父さんが声をかけた。
 整った顔は面長で、銀縁メガネをかけてる。声の印象通り優しそうな人だ。ほっそりしてて、すごく背が高い。おとなしめのデザインのポロシャツに、細身のジーンズという格好だ。
「あの……ブンちゃ、じゃなくて、文さんはどうしたんですか?」
 ナナミが、耐えきれなくなったように訊く。
「それが、ずっと、目を覚まさないのですよ」
「それって……」
「言った通りの意味です。特に身体的な原因があるようには見受けられないのですが、一向に目を覚ましてくれないのです」
 なんだか疲れた声で、ブンちゃんのお父さんが言う。
 ナナミは、ちら、とあたしに視線を向けた。あたしはその視線を受け止め、肩を小さくすくめる。
 睡眠障害のあたしとしては、何だか、他人事でない話だ。
 ただ、あたしの場合、ほっとけば一週間くらい眠っちゃいそうな時期があるってだけで、ゆすられたり叩かれたりすれば起きる。その後、三秒で眠っちゃうこともあるけど。
 でも、ブンちゃんの場合は、そうじゃないらしい。
「僕も、医者の端くれですし、友人や同僚にも医者はいます。それなのに、誰にも、この症状の原因を突き止めることができないのです」
 こんなことを、初対面の女子高生に言うんだから、このお父さん、かなり追いこまれてるんだろう。
 しかし、その表情を見ると、ホント同情しちゃう。うろたえてるってわけじゃないんだけど、娘のことを、ほんっとーに心配してるんだってことが、ひしひしと伝わってくるのだ。
「それで……」
 あたしたち、何をすればいいんですか、と訊こうとしたあたしは、思わず絶句してしまった。
 部屋のドアのところに立ってるブンちゃんのお父さんの後ろに、すごく人相の悪い人が現れたのだ。
 ごつごつした大きくて痩せた顔に、ほとんど毛の生えてない頭。両目を、丸いレンズの黒眼鏡で隠してる。薄い唇が、なんだか爬虫類っぽい。
「お前さんか」
 この暑いのに、灰色のワイシャツにぴっちりと黒っぽいネクタイをしたその人は、あたしの顔を見て、ちょっと驚いたような声をあげた。
 でも、驚いたのはこっちである。そこに立ってるのは、まぎれもなく、あの乾さんだったのだから。
 乾孝晃。D.D.。譲木くん――本物の譲木拓馬くんの最期に、立ち会った人。
「何、ユッキ、知り合い?」
 ナナミが、ちらちらと乾さんに視線を送りながら、あたしにささやくような声で訊いてくる。
「ん、まあ、ちょっと」
 あたしの返事は、要領をえない。
「お知り合いなのですか?」
 ブンちゃんのお父さんも、乾さんに訊いている。
「以前に、仕事を手伝ってもらったことがありましてね」
 乾さんが答える。確かに、そう言えなくもない。
 あ……乾さんがここにいるってコトは、つまり……これは、D.D.が関わるべきコトなわけだ。
 超常事件、って言うんだって、いつか譲木くんが言ってた。
「乾さん」
 あたしは、ささやくような声で訊いた。そんなあたしと乾さんを、ナナミが不思議そうな顔で見比べてる。
「ブンちゃん……若槻さんは、大丈夫なんですか?」
「ん、ああ」
 乾さんは、無表情な顔のまま、あたしに向き直った。
「とりあえずは、大丈夫だ。だが、予断を許さない状況でもある」
「……」
 乾さん以外の三人が、押し黙る。
「それで、あたしたちは何をすればいいんです?」
「色々と、彼女のことを訊こうと思ってな」
「ブンちゃんのコト?」
「父親じゃ分からないようなことをだ」
 言いながら、乾さんは、ブンちゃんの本棚に並ぶ沢山の本の背表紙を、無遠慮な視線で眺めまわした。
「……例えば?」
「主には、学校での交友関係とかだな。他に、どんなクラブに入っていたとか、どういったことに身を入れていたとか」
「はあ……」
「それと、もし付き合ってる男とかがいたなら、そのことも聞きたい」
「そんなこと聞いて、どうするんです?」
 あたしと乾さんの間に、ナナミが割って入った。む、乾さんは、どーやって答えるんだろ?
「睡眠下心理療法を施す際の参考にする」
「えっと……なんです、それ?」
「簡単に言えば、眠ってる人間に催眠術をかけるようなものだ」
 なんだか、うさんくさい説明だなあ。
 じろ、とナナミはあたしの方を見た。その目が、この乾さんを信用していいものかどうか、訊いている。
 正直なところ、あたしには判断材料がない。そもそも、こういうコトにD.D.が絡んでくるなんて予想外なのだ。それとも、今のブンちゃんの症状には、DEMONが関係してるってことなんだろうか?
 だとしたら、この乾さんのことは、少し信用してもいいかもしれない。大袈裟なことを言うなら、あたしはこの人に命を助けてもらったこともあるのだ。
 それにあたしは、ブンちゃんについて、人に話すのをはばかるほどのコトを知ってるわけでもない。だいたい、お父さんがお医者さんだったってことさえ知らなかったくらいだ。
 それに、何よりも、ブンちゃんのことが心配だ。
 乾さんが危ないって言うんだったら、多分、命に関わるようなコトなんだろう。D.D.ってのは、そういう危険な稼業なはずだ。
「あたし、協力しますよ。乾さん」
 横であたしの言葉を聞いてるナナミを意識しながら、あたしはできるだけはっきりと言った。



 その日、あたしとナナミは、乾さんの質問にできる限り答えた。
 クラスメイトの名前や、担任の小野寺先生のクセ、教室での席の場所、最近話題にしたマンガ、帰りによく買い食いするファーストフードのメニュー……。
 乾さんはそういうことを、いちいちメモに取っていった。
 いったいコレが、何の役に立つのか、全然わからない。でも、乾さんの顔は、それなりに真剣だった。
「……今日のところは、こんなもんか」
 夕方近くになって、あたしたちはようやく、乾さんの質問攻めから解放された。これで乾さんは、今時の女子高生について、ちょっとしたコラムを書くくらいの知識を仕入れたはずだ。
 このヒトがそんなこと、するとは思えないけど。
「どうでしょう?」
 あたしたちに紅茶を淹れながら、ブンちゃんのお父さんが訊いてきた。
「材料は、多ければ多いほどいいんですよ」
 乾さんが答える。
「こないだ聞いた事柄と合わせて、ちょっと分析してみます。実際に治療を試みるのは、二、三日あとというところです」
 言いながら、乾さんがベッドの上のブンちゃんに目を移す。
 つられて、あたしもブンちゃんの顔のほうを向いた。
 ブンちゃんは、ほんの少し、眉を曇らせたような顔で、ぐっすりと眠ってる。
 なんだか、よくない夢を見ているように見えた。



「如月か」
 いきなり、呼び捨て。
「乾だ。今日は、いろいろ協力してもらってすまん」
 深夜、ってほどではないけど、男のヒトが花の女子高生に電話をかけてくるには、ちと微妙な時間である。ま、携帯だから問題ないけど。
 あのあと、あたしとナナミは、なんとなく毒気を抜かれたような感じで、そのまま別れて家路についた。
 マンションに帰っても、誰もいなかった。母さんは何たらスクールのお友達と、ここ数日、北海道に旅行に出かけてる。いい身分だ。
 一方、父さんは毎日遅い。仕事が大変なのか、家に帰るのがイヤなのか、正直よく分からない。とにかく、ここ数年、父さんはあたしと話をしようとしない。
 無論、父さんが帰ってくるような時間には、覚醒期のあたしはきちんと起きてる。「ただいま」が聞こえれば「おかえり」くらいは言うけど、それだけだ。
 何だか、少しずつ、あたしンちはその温度を下げている。
 母さんも父さんも、離婚するほどの熱意さえ、自らの家族に抱いていないみたいだ。
 ま、それはそれで、気楽といえば気楽だけど。
 そんな生ぬるい気楽さの満ちたあたしの部屋で、あたしは乾さんからの電話を受け取ったのだ。
「で、正直なところ、ブンちゃんはどうなんですか?」
「ぶんちゃん?」
「若槻文のことです」
「……ああ、それでブンちゃんか。なるほどな」
 どことなく馬鹿にしたような口調で、乾さんが言う。あー、このヒトってばどーしてこうなんだろ。
「乾さんが絡んでるってコトは、あの、やっぱ怪物とかが関係しているんですよね」
「そうだ」
 あっさりと、乾さんは言ってのける。
「で、どーなんです?」
「何が?」
「その怪物ってのは、ブンちゃんに何したんです? 噛まれて毒が回ってるとか、そういうヤツなんですか?」
「そういうことじゃない……。彼女は、DEMONに憑依されている」
「ひょうい?」
 あたしの脳みその中の辞書ファイルが、急いで該当する言葉を探し当てる。
「ひょういって、あの、憑依霊の憑依ですか? ヒトに霊が取り憑くとか、そういう」
「ご名答」
「……」
 あたしは、思わず黙り込む。からかわれてると思った訳じゃないけど、何て言うか、話が突拍子なさすぎた。イロイロな目にあったけど、まだ慣れないわけだ。まあ、慣れちゃおしまいのような気もするけど。
「そもそも、あらゆるモノには、基本的に物質と精神の二面がある」
 いきなり、乾さんは宗教っぽい話を始めた。
「はい?」
「まあ、精神と言っても、そこら辺の木や石ころにだってあるものなんだが……通常の五感では知覚する事のできない面がある、くらいに言っとこうか」
「はあ……」
「そういった面を、D.D.T.では精神体と呼んでる。あらゆるモノは、木も石も動物も人間も、この精神体と物質体によって構成されている」
「そうですか」
 あたしは、気のない返事を返すしかない。いきなりそんなコト言われても、ってとこだ。
「しかし、DEMONの中には、精神体のみの存在がある。つまり、まるきり通常の感覚では感知できないようなヤツだな。この前、お前さんや譲木が遭った幽霊とやらも、それだ。D.D.の間では、そういうのはホーントって呼んでるがな」
 それは、確か譲木くんに聞いた。
「精神体のみのDEMONは、物質体によって干渉されにくい。だから、ホーントを銃で片付けることはできない」
「え、でも……」
 譲木くんは、あの、氷川さんのお母さんの幽霊に、銃を構えてた。
「ただし、結界の中は別だ。結界は、精神体の世界と物質体の世界の、どちらにも属さない。言わば、その二つの世界の間の泡みたいなものだ」
「あ、そう言えば譲木くん、そんな話してたなあ」
「憶えておいてやれよ」
 さすがに、乾さんは苦笑いしてるみたいだった。
「ま、いい。ところで、そういった精神体のみのDEMONは、物質体に阻まれることなく、人間の精神体に危険なほどに接近し、強い影響を及ぼすことができる。つまり、取り憑くわけだ」
「じゃあ、ブンちゃんも?」
「精神体のDEMONに憑依されている。眠ったまま起きないのは、そのせいだ」
「それじゃ、どうすればいいんです? ブンちゃんを、結界の中に入れるとか?」
「そうしたところで、憑依したDEMONと被害者を分離することはできない。こちらから、ヤツのいる場所に出向くしかないんだ」
「ヤツのいるところ、って……?」
「被害者の心の中だよ」
「……それは、モノのたとえってやつですか?」
「いいや。言葉通りそのままの意味さ」
 ……心の中に、入る?
「D.D.なら、それができる。正確には、夢の中に入るんだがな」
 物すごく詩的なことを、乾さんが言ってる。正直、全然似合わない。
「つまり、夢ってのは、結界の一種なんだ」
「そういうもんですか」
 あたしは、なんだかマヌケな言い方で応じた。
「……で、そんなコトあたしに話して、どうしようってんです?」
 半ば予想がつきながらも、あたしは乾さんに訊く。
「DEMONに憑依されてる友達の夢に、入ってみる気はないか?」
 予想通りのことを、乾さんは言った。

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