第二話
『異能の代償』
第四章



 おおおおおうおおおお……! おおぉおををを……!! オオオォオオオおをををおをををををををおおおをををーををををを……!!! おおおおうおおおおおおおおーおおおおおおおおおーおおおおおおおおおおうおおおおおおおおヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲ〜!!!!

 圧倒的な声が、雨が屋上のコンクリートを叩くさわさわという音を、かき消してた。
 頭が、ぐらぐらとゆすぶられるような不快感。
 あたしは、無意識に耳を覆っていた。そのあたしの手を通して、声はあたしの意識に浸透していく。
 どうにか……
 どうにか、耐えた。あたしは、目に涙を浮かべながらも、どうにか正気を保つことができたのである。おーげさな言い方かもしれないけど、それが正直なところだ。
「雪乃ちゃん、あれ……」
 そろそろと耳から手を離したあたしに、萌木さんが呼びかける。
 あたしは、目を疑った。
 どこからともなく、人が、この屋上に現れたのだ。
 それも、一人じゃない。ゆらり、ゆらりと、ひどく危なげな足取りで、何人もの人が、ココに通じる階段室から、屋上に上がってきてる。性別も年齢もばらばらで、今、十人くらい。しかも、これからもっと増えそう。
「ゆうれい……?」
「俺には分かんないけど、違うんじゃない?」
 さすがにちょっとだけ声を緊張させる萌木さん。でも、あくまでちょっとだけ。
「足、あるしサ」
「そういう問題じゃないと思う」
 でも、萌木さんの言う通りだ。その人たちには、きちんと足がある。その上、輪郭もきちんとしてるし、どこからどう見ても普通の人間だ。あの、氷川さんのお母さんとは、違う。
 でも、その、ごく普通のヒトが、ゆらゆらと体を揺らしながら、無言でこの屋上に集まりつつあるのは、かなりコワい。
「夢遊病、か……情報の通りだね」
 言われて、思い出した。このビルを中心に、夢遊病者が多発してるってこと。
 確かに、集まってきた人たちはほとんどが寝巻きで、しかも裸足である。中には、Tシャツにタンパンの人もいる。みんな、ぬれねずみになって、足なんか汚れでべたべたなのに、全然むとんちゃくだ。
 まだ、あの歌声は聞こえてる。前みたいに、脳の内側にまで響くような、奇妙な聞こえ方はしてないけど。
 そして、この人たちは、明らかにその歌声に操られている。直感で、それが分かった。
「どうしよう……?」
「どうするの? 俺、D.D.じゃないんで、こういう時、みんなどうしてるのか知らないんだ」
「あ、あたしだって知りません!」
 やっぱり無責任な萌木さんの態度に、思わずあたしは大声を出した。
 そんな中、集まってきた人たちは、目を半ば閉ざした空ろな表情で、あたしたちを無視して、給水塔の方へ歩いていく。
 次々とあたしと萌木さんの横を通りすぎて行く人たち。肩に手を置いて、声をかけようかとも思ったけど、それもためらわれる。それ以前に、そもそも怖くて足がすくんでる。
 その人たちは、何を考えてるのか、それとも何も考えてないのか、それぞればらばらに給水塔にとりついた。給水塔って言っても、錆びついた細い鉄骨の土台の上に、直径2メートルくらいの円筒形のタンクがあるだけだけど。
 そして、みんなは、ぐらぐらと体重をかけて、その細い鉄骨でできた土台を揺すり始めた。鉄骨はぼろぼろに錆びてて、いかにも頼りなさげ。
 見ると、氷川さんまでが、集まってきた人たちと一緒になっている。その顔は、ここからだと後向きでよく分からないけど、やっぱり、みんなと同じように空ろなんだろうか。
「あ……危ないよ!」
 給水タンクが倒れたら、倒れた方にいた人は、下敷きになっちゃう。でも、みんなはなんのためらいもなく、全体重をかけて土台を揺することに専念してる。
「ちょ、ちょっと! 危ないでしょ! ねえってば!」
 あたしは、大声で叫んで、思わず駆け出していた。ようやく、体を動かすことができるようになったのだ。
 と、そのあたしを、萌木さんが走って追い越す。
 ばきン、と、意外と高い音が、雨の中、響いた。
「きゃ!」
 タンクが、倒れる。ちょうど、走り寄ったあたしの方向に。
 あたしの前方には、ちょうど氷川さんが、ぼんやりと立っていた。
「わひゃあアアア!」
 あたしは、何かわめきながら、氷川さんの細い体を抱えて横に逃げた。途中、足がもつれて、一緒になってぶっ倒れる。屋上は当然水浸しで、その水はむちゃくちゃ汚れてた。ふええ、最悪ぅ。
 あたしの視界の端で、あたしよりよっぽどスマートに、萌木さんが誰か別の女の人を助けていた。むっ、なかなかやるな。
 ぐわアん、と、派手な音を立てて、タンクが屋上に倒れこんだ。
 茫然と膝立ちで様子を見てるあたしの目の前で、タンクの蓋が衝撃ではずれる。蓋は、がらンがらンと無遠慮な音をたてて、向こうのほうに転がってしまい、タンクの中にたまっていたらしい、やっぱりむちゃくちゃ汚い水が溢れ出る。
 みんな、給水タンクが倒れた拍子に、そこら中でぶっ倒れてた。それが、のろのろと身を起こす。その、ぼやん、とした顔を見ると、ちっとも正気に返ってないみたい。それは、氷川さんもおんなじだ。
「だいじょぶ? 雪乃ちゃん」
 この場で、唯一正気を保っているらしい萌木さんが訊いてくれる。なんだか、すごいホッとする。
「えっと、何とか……」
 立ちあがりながら、あたしはそう言いかけて……絶句した。
 タンクの中から、何か、生白いものが、ぬるりと這い出てきたのだ。
「……ッ!」
 あんまりびっくりしたんで、悲鳴を飲み込んでしまった。
 なに、これ?
 それは、白かった。まるで、むりやり漂白した軟体動物みたいな、ぬらぬらした白色。その白いのが、両腕で胴体を支え、のろのろと這いずってる。
 上半身は、それでも、人間に似てた。胴体に、頭に、両腕がある。でも、体毛らしきものは全然なくて、まるで剥き身のゆで卵みたいな頭には、目も鼻も耳もない。ぱっくりと大きく割れた口があるだけだ。手の先の指はびっくりするくらい長くて、その間には水かきみたいな膜がある。膜は、腕と胴の間にもあって、なんだかそこだけ見るとムササビみたいな感じもする。
 そして、その下半身は……
 人魚、と言うと、イメージ全然ちがうんだけど、そんな感じだった。魚の下半身みたいにぬるんと伸びて、先端には尾びれみたいな器官がある。
 でも、はっきり言って、コレは、あたしの知ってる何にも似てない。
 DEMON……?
 確かに、これは、この世界のものじゃない。
 そいつは、なんだか満足そうにぱっくりと口を開いて、にたっと笑った。いや、相手はこんなだから、本当に笑ってるのかどうか分からないんだけど、とにかく、笑っているように見えたのだ。
 口の中に、鋭い歯がずらりと並んでる。あんなんに噛み付かれるのは絶対にごめんだ。
 あたしの腕の中の氷川さんは、そっちをぼんやりと眺めながら、まるで人形みたいに、まったく無感動な様子である。
 そいつは、にたにた笑いを白い顔に浮かべたまま、のろのろとこっちを向き、そして、いきなりあたしに向かって跳んだ。
 うわああああああああああああ!
 まるでゴムでできてるみたいに、腕と胴の間の膜や、指と指の間の水かきが、ぶわっと広がる。
 意外な飛距離を見せて、そいつはあたしに肉薄した。腕が翼になったんだ。節操のない構造!
 って、やられるッ!
 あたしは、思わず氷川さんの体をぎゅっと抱いた。かばうつもりだったのかどうかは、よく思い出せない。
 がきゃン!
 そんな、音にならない音が、あたしの脳髄に響く。
 へ?
 そいつは、あたしのすぐ手前で、何か見えない壁に阻まれ、びしゃっ、と地面に降りた。
 あたしの目の前の空気がなんだか歪んで、足元に転がった懐中電灯の光を、虹色に反射してる。
 ああ、アレだ。譲木くんが、前にやったヤツ。障壁、って言ってたっけ。
 それが、あたしの目の前にある。
 やっぱ……あたしってば、D.D.なんだ。
 なんて言ってる場合じゃない。そいつは、ムキになったように、あたしに次々と鉤爪を繰り出してくる。そのたびに、耳では捕らえることのできない衝撃音が響き、虹色の空間のカケラが、宙に舞う。
 あたしは、みっともない話かもしれないけど、またもや足がすくんで動けなかった。ううん、こんな目にあって、のーのーとしてられる方が、神経がおかしいんだ。
 目の前で、障壁が削られていく。
 あたしには、なぜか、その障壁がいつかは破られてしまうものだということが、分かっていた。いくら超能力とはいえ、その効果は有限なのだ。
 障壁が、薄くなっていく。衝撃はずんずんと体に響き、あたしはじりじりと下がっていった。
 こいつの、浮かべたままのにたにた笑いが、時々、あたしの喉笛を狙う。そのたびに、障壁が阻んでくれるんだけど、多分、限界は近い。あたしには、分かる。
「ンう……」
 あんまりきつく抱いたせいか、氷川さんが小さく声をあげた。
 その瞳の焦点が、次第に合ってくる。顔に、生気が戻ってきた。
 氷川さんを無表情だなんて言ってたあたしは、何も見えてなかったらしい。こんなにも、正気に戻りつつある彼女の顔には、表情がある。
「きゃ……!」
 目の前で鉤爪を繰り出し続ける生白い怪物に、氷川さんは大きく目を見開き、悲鳴をあげた。
「い、イヤ……イヤあッ!」
 その、氷川さんの悲鳴を合図にしたかのように、障壁の最後の一片が、砕け散った。
 元に戻った空間は、奴の攻撃を阻むことはない。その長い鉤爪が、あたしの肩をかすめた。痛みより、冷たいような感覚が、あたしの体を襲う。
「だ、だいじょぶ? 如月さん!?」
 状況を理解し得ないまま、あたしの身を案じてくれる氷川さん。
 ごめん、でも、もうダメみたい。
 かすめただけだってのに、血がだくだく流れてる。それが、雨に薄まりながら、腕を伝って滴り落ちていった。
 奴の、にたにた笑いが、目の前に迫って……
 あ!
 気が付くと、あたしの体は、何かに弾き飛ばされていた。
 奴の攻撃じゃない。なんだか、冷気のカタマリみたいなものだ。
「ふえ……」
 尻餅をついた状態で、あたしは声をあげていた。横で、やっぱり座りこんじゃってる氷川さんが、息を飲んでる。
「おかあさん……」
 その言葉通り、奴とあたしたちの間に、白い人影が割って入っていた。そう、氷川さんのお母さんだ。
 二つの白い影が、夜の闇の中、まるで浮き上がっているように見えた。
「をおをををををおおおおおおおおオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
 給水タンクの中にいたときより、よっぽどはっきりした声で、そいつは叫んだ。耳から入りこんだその音は、あたしの心をかき乱す。
 しかし、氷川さんのお母さんは、全く動じていない。
 そして――二つの影は、互いに向かって跳躍した。
 耳を塞ぎたくなるような不協和音と、鳥肌が立つようなすさまじい冷気が、辺りを覆う。なんだか痛いと思ったら、雨粒が、凍って雪になってあたしの顔を叩いているのだった。
 両者が、激突する。
 不思議な、戦いだった。
 あいつの牙や鉤爪は、空しく宙を舞い、一方、氷川さんのお母さんの繰り出す冷気は、確実に奴の動きを鈍くさせている。
「おかあ、さん……」
 優雅に、しかし力強く、自分を守るために戦ってるお母さんのことを、氷川さんは、ぽろぽろと涙を流しながら見つめている。まるで、ちっちゃな女のコみたいな顔。
 ようやく、その戦いにも、最後のときが訪れた。
 例の奴が、とうとう力尽きたのだ。
「ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲォ……んんんんんんん……」
 ちょっと可哀想になるような細い声をあげ、そいつは、濡れる屋上の上に、べちゃっ、と倒れた。
 そのぬらぬらした体が、ぐにゃりと崩れる。
 そして、その中から、奇妙な塊がごろごろと現れた。
 それは……ほね、だった。
 明らかに人間の、全身骨格である。
「あ……」
 何か言いかける氷川さんの前に、お母さんが、すうっと滑るように寄ってくる。
「だいじょうぶ? つきこ……」
 輪郭は曖昧だけど、優しくてきれいな顔で、その人は言った。
 こくン、と氷川さんは肯く。
「つかれたでしょう……もう、おやすみなさい……」
 再び、肯く氷川さん。
 氷川さんのお母さんは、その体をそっと抱き締めて……そして、雪が溶けるように、消えてしまった。
「え……?」
 屋上の上で、体を丸めるようにして、氷川さんは眠ってしまっている。
「えっと、ど、どうしよ……?」
 あたしは、茫然とつぶやいた。ホントに、ホントにどうしよう?
 と、遠くから、いくつかのサイレンの音が響いた。
「パトカーと、救急車だね」
 萌木さんが、のんびりした声で言った。あ、この人、まだいたんだ。
 助けてもらえなかったことをなじるべきか、逃げずにいてくれたことを感謝すべきか……。
「結界を、張るよ」
 と、後から、今度は譲木くんの声が聞こえた。
 振り返ると、なんとなく沈んだ顔の譲木くんがいる。手には、もう拳銃を持ってなかった。ちょっとホッとする。
「えーっと、氷川さんは……? あと、他の人たちも……」
「警察に任せる」
 短くそう言って、譲木くんは、精神集中のためか、目を閉じた。
 すると、ぐらン、と世界がスキップする異様な感覚があって……周囲から、氷川さんや、他の人たちの姿が消えた。いるのは、譲木くんとあたし。それと、萌木さんだけ。
 あ、あと、屋上に横たわる、アレの死体も。もはやソレは、洗われたようにきれいな白骨にまとわりつく、原形をとどめない白いどろどろになっていた。
 あたしたち、譲木くんの張った結界の中に、入ったんだ。
 だから、“外”から見てる人がいれば、あたしたち三人(とヤツの死体)が、ふっと空中に消えたように見えたはず。
「さぁて……」
 あたしは、わざとらしく腕を組んで、譲木くんと萌木さんの顔を交互に眺めた。
「説明して、もらいましょうか」



 サイレン。
 それが、あの怪物の名前だという。
「と言っても、もちろん、D.D.T.がつけた名前だけどね。その正体は、ぜんぜん分かってない。ただ、人の死体を核にして集合した群体だって言われてるけど」
「ぐんたい?」
「サンゴみたいなものだよ。小さな同種の生き物が集まって、一つの生物のように活動するっていう、そういうやつ」
「サンゴ、ねえ……」
「ものの喩えだけどね。実際のところは、この地球の生き物なのか、それどころかこの次元原産の種族なのかさえ、分からないんだけどね」
 文字通り、まったくもって、浮世ばなれした話。
「それで、サイレンは、その“歌”で、人の精神を操れるっていう話なんだ。実際に、それがサイレンの出す音声なのかどうかは、分かりゃしないけど。とにかく、それで奴は、給水タンクに閉じ込められていた自分を解放するよう、周囲に“歌”を発信していたんだと思う。多分、人類の技術じゃ解析できないような波動に乗せてね」
「それで……夢遊病になったの?」
「うん。多分、あのサイレンの“歌”に、精神的に同調しやすい人としにくい人がいるんじゃないかな」
「ふうん……」
 聞いてても、さっぱり分からない。
「で、あの、幽霊は?」
「幽霊は……要するに、いわゆるところの幽霊だよ。死んだ人の思いが、凝り固まったもの」
「……」
「ただ、それが本当に、死んだ人の精神がまだこの次元に残留してるのか、死に際しての強い意識が、この次元の構造に投影されただけのものなのか、よく分からないけどね」
 ふと思う。譲木くんは、どれくらい、自分の言ってることを理解してるんだろう?
「とにかく、あれは、氷川さんのお母さんの幽霊だった。D.D.T.じゃ、ホーントって呼ぶんだけどね」
「ホーント? ……ホーンテッド・マンションの、ホーント?」
「そう」
「それで、その氷川さんのお母さんのホーントを結界に引きずり込んで、譲木くんはどうしたわけ?」
「……結界の中では、ああいう精神体……何て言うんだろう、つまり霊体かな? とにかくソレは、より確かな実体を有するようになるんだ。逆に、そうやって実体を与えないと、普通の武器なんかは通用しないんだけどね」
「はあ……あ、だから、あのサイレンとやりあった時も、勝負が一方的だったのかな?」
「たぶん、ね。とにかく、結界の中では、ホーントはよりはっきりした存在になるんだ。それで、あの人は僕に言ったわけ。戦うつもりはない、ってね」
「……それを、信じたの?」
「信じたってほどじゃないよ。ただ、ホーントってのは、サイレンなんかと違って、話が通じるDEMONだから」
 何がおかしいのか、萌木さんは、譲木くんの言葉に、ぷっ、と吹き出していた。
「あのホーント……つまり、氷川さんのお母さんの目的はね、自分の体に取りついたサイレンを、どうにかしてほしい、ってことだったんだ」
「どうにか……?」
「そう。自分の死体が、訳の分からない存在に侵食され、怪物になっていく。でも、自分としては、自分の肉体であったものを破壊するには忍びない。だから、誰かに、きちんと自分の体を埋葬してほしいって……」
「ふうん……って、それ、おかしいよ! 氷川さんのお母さん、結局……その、自分の体を……」
「そう、破壊した。氷川さんを助けるためにね」
「……」
「あんな姿になっても、自分の体は自分の体なんだ。あのホーントにとっては、それはすごく辛いことだったのかもしれない……」
 譲木くんは、沈んだ顔をしてる。
 あたしには、分からない。幽霊になったとして、その自分が、もとのあたしの体をどう思うかなんて。
 でも、とにかく、氷川さんのお母さんは、氷川さんを助けた。それは、悪いことじゃなかったはずだ。多分……。
 あ、今まで、何となく聞き流してたけど……
「氷川さんのお母さんって、やっぱり亡くなってたんだ」
 無言で肯く、譲木くん。
「しかも、死体が、給水タンクの中にあったってことは……」
「殺人事件、だよ」
 譲木くんに代わって、萌木さんが話し出す。その声の調子は、全然変わらない。
「殺したのは、予想ついてるかもしれないけど、旦那さん。事故なんかで会社が行き詰まってるときに、何か奥さんと感情的なもつれがあったんだろうね。とにかく、旦那は奥さんを殺して、その死体を、建築中止になったビルの給水タンクの中に隠した。今まで見つからなかったのは奇跡的だって言えるかもね」
 胸が悪くなるような話。
「で、その……氷川さんの、お父さんは?」
「しばらくは姿を隠してたんだけど……実は、この街に戻ってたんだ。もはや、奥さんを殺した時点で、普通じゃなくなってたんだろうけど、ますますおかしくなってね。それで、どん底の状態になりながら、半ば狂った頭で、ここに住みついた」
「え……それって……」
「ここで自殺未遂を起こした、例の浮浪者なんだよ。失踪した会社社長と、気の狂った浮浪者を結びつけて考える人が、警察にいなかったんだねえ」
 聞けば聞くほど、イヤな話。
「奥さんが旦那に復讐を果たしたのか、旦那が勝手に錯乱して飛び降りたのか、はたまたサイレンとかいう化物の音波に当てられたのかは、俺にはよく分からない。とにかく、月子ちゃんのお父さんは、もはや完全な廃人となって、どこかで白い壁を眺めながら暮らしてるわけ」
 そうしている間にも、給水タンクの中の死体は、着実に、サイレンのものになっていった……ということなのだろう。
 暗く狭い空間の中、汚水に半ば浸った腐乱死体が、生白い異世界の生き物に覆われていく……。
 氷川さんのお母さんは、それを、どうすることもできずに、じっと眺めていたのだろうか? 永遠に続くかもしれない時間の中で……。
 前にブンちゃんが言ってた、幽霊でいるということの悲しみについて、ふと、思った。
「サイレンは、水無しでは活動できないらしい」
 譲木くんが、締めくくるように言った。
「この時期になって、サイレンが活動を本格化させたのは、そういうことに関係あるんだと思うよ」
「……」
 あたしは、言葉もない。
 重い。あまりにも重い話に、無関係のはずのあたしが、押しつぶされそうになる。
 氷川さんは……もっと辛いはずだ。
 あたしの腕の中にあった、氷川さんの、痩せた体……。
「……警察が、全員を収容したね」
 不意に、どこか夢を見るような目つきで周囲を見まわしながら、譲木くんが言った。
「え? 分かるの?」
「結界の中からでも、コツさえつかめば、“外”の様子がある程度わかるんだ」
「へえ……」
「とりあえず、誰もいなくなった。結界、解くね」
 あたしが肯くと同時に、奇妙な音を上げて、結界が解けた。
 思わずあたしは、あたりを見まわした後、ビルの下を眺めてしまう。
 六階からだから、下の様子はよく分からない。でも、街灯の明かりの中、ちょこまかと動くお巡りさんや救急隊員の人たちの中で、ひときわ小さな人影があった。
「あれ……鳥飼くん?」
 確信は持てない。だけど、きっとそうだ。
 あたしは、ポケットの中の携帯を取り出した。雨水とかで濡れてるけど、まだ生きてる。
「……もしもし、鳥飼くん?」
 コール五回で出た彼に、そう呼びかける。
「えっと……如月……?」
 電波状態は、あんまりよくない。相手が移動してるせいだろうか?
「うん。何だか気になってさ……氷川さん、見つかった?」
 それでも、構わず続ける。
「あ、うん……ちょうど今……んだけど、無事に……ったんだ……」
 全然、聞き取れない。ただ、ひどくほっとしてる雰囲気だけは、伝わってくる。
 そして、鳥飼くんの声は……今まで聞いたことがないような、涙声だった。
 ぷつん、ととうとう電話が切れる。
 視線を戻すと、譲木くんが神妙な顔で、ビニールの手袋をして、どこからか取り出した防水加工された袋の中に、例のどろどろと、その中の白骨を回収していた。
 すごく、複雑な気分になる。もはや、あんまり気持ち悪いとは思わなかったし、譲木くんのことを怖いとも思わなかった。
 ただ、なんとなく、悲しかった。
「さ、早く帰ろう。また、警察の人、戻ってくるかもしれないしサ」
 萌木さんが、あたしと譲木くんに声をかけた。あたしは、素直に肯いとく。
「さあて、今回の事件について、どう記事をでっち上げるかなあ……」
 萌木さんの声を、びしょ濡れの冷えた体で、あたしは空ろに聞いていた。

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