第二話
『異能の代償』
第三章



「やっほー、女のコに押し倒されたんだって?」
 能天気、とは、こういう人のことを言うんだろうか。
 なーんの緊張感も感じられない声をあげながら入ってきたその人は、譲木くんの返事も聞かずに、ずかずかと家の中に入ってきた。
「いやー、晴れると暑いねぇ……って、お邪魔だったかな?」
 へらへらとした表情のまま、部屋の中のあたしのことを見て、その人が言う。
 二十代半ばくらいだろうか? 鳶色のよく動く瞳に、同じ色の髪の毛。その前髪が、ばさりと額にかかっている。スマート、と言って言えなくはない体型だけど、軽薄そうな表情のせいで、すんごく損してる感じ。
「別に、そんなんじゃないです」
 譲木くんが、苦い顔をする。
 ここは、譲木くんの家。あの、空き地の中の、ボロっちい平屋の一軒家だ。壁の茶色いペンキははげかかり、色あせた亜鉛の屋根が、強い日差しに熱せられてる。
 日曜日。昨日、あたしのせいで足を捻挫しちゃった譲木くんのことを、あたしはお見舞いに来てる。何しろ、譲木くんは一人暮しだ。お昼くらい、作ってあげたってバチは当たらないだろう。
 ってなわけで、あたしがゆでたそうめんを食べ終わったところで、この人はやってきたのだ。
 あらかじめ聞かされてたんで、驚きはしなかったけど、正直、あたしは呆れてしまっていた。
「こちら、如月さん。僕の同級生で、D.D.」
 あう。ここでもD.D.ってことにされてしまった。
「こんちはァ、雪乃ちゃん」
 なんでだか知らないけど、初対面のこの人は、あたしの名前を知っていた。にしても、いきなりちゃん付けはないだろーに。
「俺、萌木緑郎。一応フリーのジャーナリストってことになってる」
「萌木さんは、D.D.T.の外部協力者なんだ」
 譲木くんが、さっきあたしにしてくれた説明を、繰り返した。
「実は、あのマンションで起こった事件について、萌木さんに調査してもらってたんだよ」
「廃ビルの呪いで夢遊病者多発、なんて、どう書いても面白い記事にはなんないけどねー」
 そう言いながら、萌木さんは、手品みたいな手つきで、どこからともなく古ぼけた手帳を取り出した。
「でも、あのビル、建築中に事故があったてのは、ホントなんだよね。そのあとも、あそこをねぐらにしていた浮浪者が飛び降り自殺したり」
 うわあ。
「幸い、一命は取りとめたらしいけど、なんか、精神がイっちゃってて、警察でもロクに事情なんか聞けなかったみたい。そのせいで、一時は呪われた廃ビルってコトで有名だったんだけどね。これ、君らが入学する前のことだし、今じゃそんなこと憶えてる人のほうが少ないみたいだし、知らなくても無理ないけどね」
「……」
 あたしと譲木くんは、ぺらぺらと喋ってる萌木さんの前で、押し黙ってる。
「ただし、関係者に行方不明者が出てる。昨日の話はドンピシャだったわけ」
「きのう?」
「あのあと、夕方に、萌木さんに連絡とったんだ。氷川建設の関係者で、変死者か、行方不明の女の人がいないかって」
 譲木くんが、何でもなさそうにそう言う。なんだよぉ、あたしにも教えてくれたっていいのに。
「行方不明になってるのは、お言葉通り、やっぱ女性。氷川建設社長夫人、氷川美月。当時38歳」
「それって……」
「そ。月子ちゃんのお母さんなんだよ。雪乃ちゃん」
 むちゃくちゃなれなれしい調子で、萌木さんが言う。
「ま、社長夫人と言っても、彼女がいなくなった年には、氷川建設の内情は火の車だったみたいだけどね。一番の打撃は、例のマンションの建設でケガ人が出て、工事が差し止めになっちゃったことかな。そんで、氷川社長は膨大な借金と妻子を残して債権者から逃亡。続いて美月夫人も、まだ中学生に入ったばかりだった月子ちゃんを置いて失踪しちゃった、と。ちなみに、4年ほど前のお話さ」
 うう、よくある話なのかもしんないけど、重い。
 なのに、目の前の萌木さんは、なんともあっけらかんとした調子で話している。この人、どこかおかしーんじゃないだろか?
「その後、あのマンションは建築途中のまま放棄。土地を巡っては債権者が裁判起こして大揉めで、未だにだーれのものでもありゃしない、ってこと。ま、日本中、こんな話は佃煮にするくらいあるけどね」
「……そう、ですか」
 ふう、と譲木くんはため息をついた。
「で、どうするの、育馬ちゃん」
 言ってから、萌木さんは、ちら、とあたしの顔を見る。
「……拓馬ちゃんって、呼んだほうがよかったかな?」
「僕は、今はもう、譲木拓馬です」
 譲木くんが、どこか沈んだ声で言う。
「死んだのは、譲木育馬の方なんですよ」
 譲木くんの物言いは、なんか、どっかひっかかる。
 何をどうしたって、譲木拓馬くんは、戻ってこない。あたしは、それを納得しようと、そう考えてるのに……。
「育馬くん」
 あたしは、わざとそう呼びかけた。譲木くんは、驚いた顔であたしの顔を見る。
「それじゃ、君こそ、拓馬くんの幽霊になっちゃうわよ」
「つまり……そういうこと、だよ」
 意外と強情そうな口調で、譲木くんが言った。
「……」
 たぶん、今、あたしはすごくむっとした顔してる。
「帰る、ね」
 一言そう言って、あたしは立ちあがった。
「ありゃりゃりゃりゃん」
 萌木さんが、そんな妙な声を出しているのを背中で聞きながら、あたしは外に出た。
 太陽が、道路に濃い影を落とす。
 雑草が伸び放題になっている空き地を、あたしは物思いにふけりながら、のろのろと歩いた。



 さて。
 あたしは、バスを学校前で降りて、例の廃ビルの前にやって来た。
 強い日の光にさらされてるコンクリートの塊は、ますます骸骨めいた印象を与える。
 でも、今日は、なんでだか例の歌は聞こえない。
「お、如月じゃん」
 と、いきなり知った声が、あたしの後ろから聞こえた。
 振り返ると、鳥飼くんが、邪気のない笑みを浮かべて、そこに立っている。
「どしたん? こんなとこで」
「と……鳥飼くんこそ、どうしたの?」
「いや、ちょっと、気になることがあってさ」
 そう言いながら、鳥飼くんは目の前の廃墟を見上げた。
「……ここ、氷川と、ちょっとインネンがあるって話……知ってる?」
 鳥飼くんが、ちら、とあたしの顔を見て、言った。
「えっと……一応」
 不誠実な返事を、あたしは返す。
「そっか……。あいつさ、ココのことで、中学ン時、けっこうイヤな目にあってたらしいんだよね」
「氷川さんに聞いたの?」
「そうだけど」
 驚きだ。氷川さんが、そんなプライベートなこと、人に話すなんて。鳥飼くんがそれくらいしつこいのか、それとも、よっぽどの聞き上手なのか。
 そーじゃなくて、もしかして……氷川さんも、鳥飼くんのことを……?
 だとしたら、どーするよ? ナナミ。
「はっきりとは言わなかったけど、イジメなんかもあったんじゃないかと思う」
 まるで、不味いものでも口に入れてしまったようなしかめっ面で、鳥飼くんが言う。
「まあ、前のことは、どーでもいいのかもしんないけどさ……けっこう、今でも、いろいろ言ってる奴、いるみたいでさ」
 ごめん、それ、あたしだ。
 でもさあ、見ちゃったんだよ、幽霊をさあ。どーしようもないでしょ。
「で、噂を確かめに来たわけ?」
「ウワサ? ああ、幽霊の噂ね」
 鳥飼くんは、まだ子どもっぽい薄い肩をすくめた。
「確かめるっても、もし幽霊が出たら、どうこうできるってモンでもないしなあ……。とりあえず、気になって、来てみただけなんだけどね」
「ふーん……」
「ところで、如月は、どうしてココにいんのさ?」
 うおっと、まだその話はごまかせてなかったか。
「あたしは、えっと、学校に用事があって」
 く、くるしー……。
「学校に? 日曜なのに?」
「まあ、ね」
「……そー言えば、さっき、学校の方で翔子とも会ったなあ。あの、若槻だっけ? いつも一緒のメガネのコと一緒に」
 お、ナナミやブンちゃんも来てたのか。
 つまり、奴は今日も調理実習室で特訓してるってことだろうか? それこそ、日曜なのにごくろーなコトだ。
 ウチの学校は、日曜でも申し込みがあれば、校舎を開放してクラブ活動なんかに使わせてる。でも、利用者はあんまりいないはずだ。
 ま、顔でも出してみよっか。
「お前ら、何か、企んでんのか?」
「べっつにぃ♪」
 あたしは、わざと意味ありげな笑みを浮かべながら、学校へと歩いて行った。



 案の定、調理実習室には、ナナミとブンちゃんがいた。
 案に相違したのは、二人が料理でなくて掃除をしていたことだ。
「……なにしてんの、二人とも」
 目をぱちぱちさせながら訊くあたしの顔を、じろ、とナナミの猫目がにらむ。
「昨日、ちょっとお菓子をこがしちゃったの」
 ブンちゃんが、困ったような顔で笑いながら、言った。しっかし、どこをどんな風に失敗したら、天井がすすけたりするんだろ?
「それで、その後始末のために、学校でてるの? 日曜なのに」
 確かに、ちょっとおかしいと思ったんだ。料理の練習だけだったら、ナナミかブンちゃんの家でやればいいんだもんね。
「片付けが終われば、お菓子作るもん」
 ナナミは、ぷっと頬をふくらます。
「ところで、如月さんは、どうしてここに?」
「えっと、そこで、鳥飼くんに会ってね、教えてもらったん」
 小首をかしげるブンちゃんに、そう答える。
「あいつ、何か言ってた?」
「何企んでるんだ、って訊かれた」
 あたしがナナミにそう答えると、ブンちゃんはくすくすと控えめに笑う。
「ユッキも、お掃除てつだってよ」
「へいへい」
 顔を赤くしながら言うナナミがちょっと可愛かったんで、あたしは素直に掃除をてつだったげることにした。



 あたしが手伝ったせいかどうか、掃除は意外と早く終わった。
「助かったわ、如月さん」
 にこにこ顔で、ブンちゃんが言う。
「それじゃあ、七宮さん、始めましょうか」
「むぅ〜」
 じゃばじゃばと流しで乱暴に手を洗いながら、ナナミがみょーな声をあげる。
 そして、何か諦めたような顔で、掃除の時に付けてたエプロンを付け替えて、冷蔵庫の中にしまってた卵やバターなんかを準備する。
「じゃ、やるぞー!」
 まるで、親の仇でも討ちにいくような気合を入れるナナミ。
「えっと、七宮さん。とりあえず、バターは室温に戻しておかないと」
 そんなナナミに、ブンちゃんが困ったように言う。
「う〜。めんどくさい。火であぶればいいじゃん」
「ダメよ、そんなの!」
「じょ、じょーだんだってばア」
 いや、ナナミならやりかねない。
「バターを柔らかくしてる間、生地の粉を振っておきましょ」
「うん……」
 不承不承、って感じで、ナナミは肯いた。
「きゃ、七宮さん、もっとそっとやって!」
「だあって、コレ、持ち手が握りにくいんだもん」
「だから、そんなに力いっぱい握らなくても……」
「あたしはコレで普通なの!」
「じゃあ……できるだけ優しくやって、ね」
「はーい。あ、バター、とけたかな?」
「それじゃ、バターに塩を加えて、クリーム状に練る、と」
「分かった」
「あーあーあー……だから、そんなに力いっぱいやんなくても……」
「これで普通なんだってば! 次は、お砂糖でしょ」
「わあ! 一度に入れないで、三回に分けるの!」
 ……なんでナナミが料理がヘタなのか、見てて、何となく分かってきた。
 何もかも、全力でやりすぎるのだ。砂糖をボウルに入れるのだって、こいつは全力疾走である。
 そう、ナナミは、器用でない。唯一の取り柄の体育だって、陸上みたいな単純競技以外では、なかなか実力を出しきれないのだ。しかも、ペース配分が苦手。だから短距離専門。
 そんなナナミが、お菓子作りなんて繊細な作業を、顔を赤くしてやっている。
 鳥飼くんの気持ちはどうあれ、彼に、今のナナミを見てほしい。
 日曜の昼下がり、がらんとした校舎の中の調理実習室で、あたしは、そんなふうに考えていた。



 その夜。
 いきなり、あたしのケータイがインディ・ジョーンズのサントラ着メロを奏でだした。
 表示番号に、憶えはない。あたしは、眉をしかめながら、着信ボタンを押した。
「もしもし、如月か?」
「そう……だけど……」
「氷川、知らないか?」
「あの……鳥飼くん?」
「わりい、そう、オレ」
 なんだか知んないけど、すっごく慌ててる。
 それも、氷川さんがらみのことで。
「どうしたの? こんな夜中に」
 つい、考え事をしてクスリ服んでなかったんで、全然眠くないけど……今は、夜中の十二時近く。年頃の乙女に、男のコが電話をかけるには、ちと微妙な時間だ。
「いや、だから、氷川が、いなくなっちまったんだよ」
「いなくなったって……?」
「行方不明なんだよ。だから!」
 噛み付くような勢いで、鳥飼くんが言う。
「ちょ、ちょっと落ち着いてよ。一体、何があったの」
「だから……その、オレ、ついさっき、氷川に電話かけたんだ」
「ついさっきって……こんな夜中に、なんで?」
「別にいーだろ! たまに、かけるんだよ……あいつ、日曜の夜になると、学校のこととか考えて、辛いみたいでさ」
 ふーん、と声に出さないで言うあたし。
「とにかく、電話したらさ、氷川の様子がヘンなんだよ。えっと……母さんに会いに行く、とか言ってさ」
「お母さん?」
「そう。声の調子もおかしくて、なんだか寝惚けてるような、そんな風で」
「……」
「あのさ……あいつのお袋さん、失踪してんだよ」
 それ知ってる。でも、そんなことは言えない。
「そのお袋さんに会いに行くって……しかも、あんな調子でさあ。気になってもう一回電話してもつながンねえし、家に電話したら、確かに氷川、いなくなってるみたいなんだよ。きちんと教えてくれなかったけど」
「教えてくれなかったって……」
「なんだか、オレが疑われてるみたいな感じでさ。どういう親戚なのか知らないけど、ぜんぜん心配してないみたいなんだよなあ。ただ、怒ってるだけで」
「で、手当たり次第、電話かけてるわけだ」
「ああ。如月だったら……何か、知ってるかな、と思ってさ」
「って、あたしが何を……」
 言葉より速く、覚醒期のあたしの頭が回転する。
 そう、あたしは、知っている。鳥飼くんに話せないようなことを。
 あの幽霊の顔。
 氷川さんにそっくりの、哀しげな表情。
 そして、誰かを呼ぶ声……。
「もしもし、如月?」
「ご、ごめん、何も知らない」
「……そりゃ、そうだよなあ」
 あたしと話してるうちに、ちょっと頭が冷えたのか、鳥飼くんが言った。
「わりい、どうかしてた。夜遅くにごめんな」
「ううん、気にしないで」
「じゃ」
 ぷち、とやや一方的に切れる携帯電話。
 そのころには、あたしは、といていた髪を再びまとめ、外に出る準備をしていた。
 なぜか、心が焦る。いや、なぜかじゃない。焦る理由はある。
 それに終電ギリギリのはずだ。
 走ってマンションの玄関を出ると、霧雨が降っていた。えーい、もう!
 あたしは、ちょっとだけちゅーちょして、傘を取りに戻るのを諦めた。降りがひどくなったら、出先のコンビニで買えばいい!
 ……で、駅で初めて、パスケースは持ってきたのに財布を忘れたことに気付いた。
 雨は、次第に強くなっているようだった。

 ぉぉぉぉぉぉぉぉ……ォォォォォォ……ぅおぉぉぉぉぉ……おおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……ぉぉぉおおおをををオオオ……

 聞こえる。
 歌が、聞こえる。
 いや、これは歌なんだろうか。なんだかうめき声のようにも聞こえるし、鳥か動物の鳴き声みたいにも感じる。それに、機械の駆動音が、部屋の中で反響すれば、こんなふうになるかもしれない。
 そもそも、この声、どーしてあたしの耳に届いてるんだろう。
 あたしは今、駅を出たばっか。例の廃ビルまでは、まだ歩いて五分以上の距離がある。なのに、例の声は、あたしの耳にしっかりとまとわりついている。
 そもそも、これは、音なんだろうか?
 体質から、耳鳴りがすることはけっこうあるけど、それとも違う。もしかしたら、いわゆる幻聴って、こんな感じかもしれない。
 どこから聞こえているのか、その方向は分かる。分かるんだけど、その音が、障害物に遮られてる感じが、あんまりしない。
 それが、この音に関する違和感の正体だ。
 あたしの頭は、ぐるぐる回転しながら、そんなことを勝手に分析してる。
 なんだか、まるで、別の世界から響いている音みたいだ。
 次元の歪み、という言葉が、唐突にあたしの脳裏によみがえる。よく、譲木くんが使う言葉。
 空間とか世界とか、そういうものが、そんなカンタンにぐにゃぐにゃイっちゃうものなのか、よく分からないけど……この音にさらされていると、なんだか実感できる。
 それに、あの廃ビルの屋上を意識した時の、例の感じ。
 あたしは、物理はあんまり得意じゃない。でも、音が空気を伝わる波だっていうんだったら、今あたしの耳に届いてるのは、空間そのものを伝わる、何かの波動なんじゃないかしらん?
 なんてことを考えてるうちに、廃ビルの前についた。
 体が、しっとりと濡れてしまってる。服が肌に張り付いて気持ち悪い。あんまり、他人には見せたくない格好だ。
 あたしは、降り止まない霧雨に顔をさらすように、天を仰いだ。
 あんまりいいイメージじゃないけど、あたしのおでこから、見えない触手が伸びる感じ。その触手で、辺りを無意識に探る。
 やっぱり、感じる。ここが、あたしの知ってる世界とは、別の何かでできあがってる。吐き気を伴う違和感。
 うう、きもちわるい〜。
 でも、あたしはガマンして、問題の廃ビルに入りこんだ。中は真っ暗だ。用意しといた懐中電灯のスイッチを入れる。
 素人映画スタッフ三人組が、お化け屋敷のルポを撮影してる最中に全滅しちゃうホラー映画のコトを、思い出してしまった。アレ、なんて映画だっけ。
 ううううう。
 寒い。体が冷えてきた。すっごく心細い。
 なんで、あたしはここに一人で来てるんだろう。しかも、別に親しくも何ともない女のコのために。
 しかもそのコは、ナナミの恋敵なのだ。う、うわあ、“こいがたき”だって。
 ――だから、だ。これであたしが氷川さんを見捨てると、あたしは友達の恋路をそーいう形で応援するという、かなり最低な人間になってしまう。たとえ、そんなつもりでないにしても。それじゃ、ナナミにも鳥飼くんにも、会わせる顔がない。
 どっか、矛盾してるだろうか? それとも、論理の破綻?
 えい!
 ぐだぐだ考えててもしょうがない。あたしは、氷川さんを助けなきゃなんない。

 おおおおおうおおおお……おおぉおををを……オオオォオオオおをををおをををををををおおおをををををををを……おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲ……

 歌が、呼んでる。あたしの意識を乗っ取って、自分がいる場所へと導こうとしている。
 抗いがたい、何かの誘惑にも似た、奇妙な声の調べ。
 だったら……抵抗できないんだったら、自分の意思で、その場所に行けばいい!
 あたしは、ことさら力を込めて、階段を一歩一歩昇り始めた。



 屋上。
 今は、例の歌は聞こえない。
 そこは、奥歯が鳴るほどの冷気に覆われていた。
 冷気のためか、別の理由によるのか、よく分かンないけど、霧が、渦巻いてる。
 あたしは、そこに茫然と立っていた。
 錆びついた給水タンクの傍らで、あの白い女の人の幽霊と、痩せた女のコが抱き合ってる。
「氷川、さん……」
 あたしは、思わずつぶやいていた。
 なんでだろう、あたしには、二人が、すごく綺麗に見えた。
 うん、綺麗だ。素直にそう思う。すさまじい冷気の中で、まるで着物をまとったように見える、ぼんやりとした人影に身をゆだねてる氷川さんは、今まで見たことのないような、安心しきった表情を浮かべていた。
 ああ……
 お母さんに、会えたんだね。
 あたしは、何の事情も知らない。だけど、なんでか、今、目の前に起こっていることが、いけないことだとは思わなかった。
「氷川さん、離れて!」
 と、あたしの背後で、切羽詰った声が響いた。
 振り返ると、真っ黒な拳銃を構えたすごく怖い顔の譲木くんと、ひょうひょうとした表情のままの萌木さんがいた。
「譲木くん!」
 そうだ、あたしは、これを恐れていたのだ。
 D.D.である譲木くんは、たとえ相手が誰であれ――氷川さんのお母さんであっても、この世界から消そうとする。それがD.D.の活動目的だから。
 氷川さんが、驚いた顔で、こっちを向いてる。
 でも……でもなんで、こんなに早く、この人たちは、ここに現れたんだろう?
「氷川さんがここにいるって、なんで知ってるの!?」
 あたしは、叫ぶような声で、訊いた。もし、あの幽霊が氷川さんのお母さんだってことに気付いてても、まさに今夜、ここにやってくるのは、タイミングがよすぎる。
「電話にね、盗聴器、しかけてたんだ」
 譲木くんの代わりに、萌木さんが答える。
「なんですって……?」
「キミのじゃないよ。鳥飼隼也ちゃんの♪」
 思わず、あたしは萌木さんの顔をぶん殴りそうになった。
 が、そんなコトしてる場合じゃない。
「ダメよ、譲木くん。あの人、氷川さんのお母さんなのよ!」
 とにかく、譲木くんを止めなきゃいけない。あたしは、まっすぐに幽霊に向けられてる銃口の前に、両腕を広げて立ちはだかった。
「如月さん、どいてよ!」
「ダメっ!」
 あたしと譲木くんの視線が、ぶつかる。
 と、唐突に、譲木くんの姿が、目の前から消えた。
 結界!
 後を見ると、氷川さんが一人、茫然とした顔で立っている。幽霊の姿は、どこにもない。
 細かい雨の中、細い足で佇む彼女は、ものすごく、ものすごく孤独に見えた。
 譲木くん、結界の中に、あの幽霊だけ引き込んだんだ。
 あたしも、結界の中に……!
 そう、思ったとき

 ををををををををおおををををををををををををおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおヲヲヲヲヲををおおおおおおおおおおおおおをををををおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおをおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオおおおおおオヲヲヲヲヲヲおおおおヲヲヲヲヲヲヲヲヲおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!

 例の歌が、これまでとは比べ物にならないくらい強く、あたしの脳に響いた。

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