第二話
『異能の代償』
第二章
土曜日。でも、今週は学校がある。理不尽だ。
その上、しとしとと、うっとおしく雨が降っている。そんな放課後。
「よお、如月ぃ」
帰ろうとしたところで、鳥飼くんに会った。一応、彼とだって、小学生以来の知り合いだ。ナナミみたいな親密な付き合いはしてなかったけど、会えば声くらいはかけあう。
「氷川、どこにいるか知んない?」
無邪気な顔で、そう訊いてくる。
「知らない」
あたしの答えは、ちょっとそっけない。
「だよなー。お、翔子は? 一緒じゃないのか?」
「うん」
ナナミは次点か。かーいそうに。
「珍しいな。いつも一緒なのに」
「まあね」
「……あいつ、最近、なんかメゲてねえ?」
鋭いんだか鈍いんだか、平気な顔であたしに訊く鳥飼くん。
「そう? ……ところで、鳥飼くんさあ」
「ん?」
「氷川さんに、ずいぶん熱心みたいだけど?」
「分かる……よなあ、そりゃあ」
鳥飼くんは、あたしの切り返しに、小さなため息で答えた。
「ああいうコ、好きなの?」
「んー、そう、正面きって言われるとなあ」
言いながら、照れたようにくしゃくしゃと頭を掻く鳥飼くん。この場にナナミがいたら、多分、血ィ見てたな。
「気にはなってるんだけどね。それだけだよ、今は」
「みたいね」
「ちぇ。……翔子には、言わないでくれよ」
苦笑いしながら、鳥飼くんが言う。ダメだって。ムダだってば。
そんなあたしのテレパシーは通じず、鳥飼くんは元気よく靴をはき、走るように帰りだした。
ところで、ナナミは、ブンちゃんの指導を受けるべく、料理研の活動に顔出してる。
このまま部員にさせられちゃうかどうかは、料理研がどれだけやり手かによるだろーけど。
で、あたしはそれに付き合ってもよかったんだけど、一人で、帰ることにしたわけだ。
助けてやる、とか言ったわりには薄情だったかもしれないけど、正直、あたしがいたところで、ナナミの役に立てるとは思えない。ま、アイデア出したのはあたしなんだし、頭脳労働担当ってことで。
……気になることが、あったのだ。
例の、廃ビル。
建築中で放棄された、あの六階建てのマンションのことだ。
正確に言うなら、そのマンションに出るといわれてる、声だけの幽霊のこと。
その幽霊のものらしき声が、耳について離れない。
うう。
あたしは、幽霊なんか信じない。ううん、信じてなかった。でも……世の中には、常識ではとても考えられないような何かが、間違いなく存在するってコトを、あたしは思い知らされてる。
異次元からの侵略者DEMONを相手に戦う、超能力の使い手D.D.。
言葉にしてみると、コレはちょっとどうかと思う。でも、現実なのだ。
だとすると、幽霊だって、存在するかもしれない。
だからって、あたしが確かめる筋合いのもんじゃないんだろうけど……あたしには、聞こえちゃうのだ。その、霊の声とやらが。
自分で「霊感が強い」などと称する人間は、あまり好きなタイプじゃなかったはずなんだけど……まさか自分がそうなるとは思わなかった。人生、死ぬまで勉強。
とにかく、何が起こってるのか、知らなくちゃ。
そんな気持ちで、一人、家路につく。駅に至る道の途中の、例の通り。
意外なことに、先客がいた。制服からして、ウチの生徒だ。
そりゃあこの道は、駅までの帰り道だから、誰がいたっておかしくはない。おかしくないんだけど、じっと道のはしに立って、例のビルをじっと見上げてるとなると、これは、注目してしまう。
赤いカサを持ち、廃ビルの敷地の前で佇む、女のコ、一人。
「氷川さん……」
あたしは、思わず声に出してつぶやいていた。
そう、確かに氷川さんだ。氷川さんが、雨の中たった一人で、その不気味な廃ビルを見上げている。しかも、相変わらずの無表情。
……いや、ちょっと、悲しそうな顔にも見える。
カサをさしてる上にこの雨だし、全部、あたしの思い込みかもしれないけど。
あ。
やっぱ、歌が、聞こえる。
ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……ォォォォォ……ぉぉぉぉ……
例の、耳に絡みつく細いクモの糸みたいな歌声。それが、まるで耳から頭の中にまで入り込んで、脳にまで届いているような……。
なんだか、目の前が、くらくらするような感覚がある。立ちくらみに近い感じ。
あたしは思わずよろめいて、柵も何もない廃ビルの敷地に入り込んでしまった。地面がむき出しなため、ちょっとぬかるんでる。あー、もう、靴が汚れるよォ。
なんて考えてるうちにも、あたしは、そのまま、二、三歩、足を進めてしまっていた。
前方の氷川さんの様子も、どうもおかしい。
ふらふらと不確かな足取りで、やはり、この廃墟の佇む敷地に入り込んでしまったのだ。その上、ベニヤ板でおざなりに塞がれた入り口の隙間に、その身をねじ込もうとしている。服が汚れるのもお構いなしだ。あう、ウチの夏服、白だから目立つのに。
氷川さん! と、呼びかけようとしたんだけど……声にならない。
ああ。
それどころじゃない。
あたしの意識まで、なんだかおかしくなり始めた。耳にまとわりつく奇妙な歌声が、じわじわと脳を浸食し、体の主導権をのっとっていくような感じなのだ。
ぉぉぉぉぉおおお……おおおオオオオオオオ……オオオオオヲヲヲヲヲヲ……
体が、動かない。
違う。動いてる。ただ、あたしの体を動かしているのが、あたしの意思じゃないのだ。
どういう、こと?
すでに、氷川さんは建物の中に消えている。この、窓も何もない、錆色のだんだらに染まったコンクリートのカタマリの中に、彼女は入って行ってしまったのだ。
そして、あたしも、ぽっかりと口をあけた建物の入り口に、のろのろと近付いていく。それが、まるで、夢の中で歩いてるみたいに、頼りなく、現実感がない。
「如月さん!」
ぐい、と後ろから、右の肩をつかまれた。
「んわっ!」
つい、妙な声をあげてしまう。
体の自由が、戻っていた。
「何してるの、こんなトコで?」
「な、何って……」
あたしは、廃墟の入り口に立てかけられたベニヤ板に手を添えた姿勢から、ゆっくりと振り返った。
「やっぱ、譲木くんか」
「そうだけど……」
左手で黒い傘をさし、片方の肩でナップザックを背負った譲木くんが、そこにいた。不思議そうな、と言うには、彼の表情はちょっとキナ臭い。ちょっと女の子っぽい細めの眉が、ぎゅっと寄せられてる。
「もしかして、また、D.D.T.が絡んでるの?」
「……秘密、なんだけどね、そういうことって」
あたしのあけすけな問いに、譲木くんが言う。それじゃ結局のところ、答えを言ってるのと同じだけど。
「絡んでるんだ」
あたしは、意地悪く確認した。
「……如月さんは、何をしてるの? ここでさ」
譲木くんが、再び訊く。うーん、何と答えたものやら。
「ここは……危険なんだ、すごく」
黙ってるあたしに、譲木くんは続けた。
「危険?」
「ああ、君だって、感じてるだろ。ここが普通の場所じゃないって」
「それは、何となく……」
「普通じゃない。特に、このビルの屋上」
譲木くんは、顔を上に向けた。
「何かがいる……」
つられて、あたしも上を向いてしまう。
このビルの屋上に、何かが……
「!」
思わず、あたしは声にならない声をあげてしまった。
感じる。
分かる。確かにこのビルの屋上に、何かある。何って言われても、答えようがないんだけど……それだけ、非現実的な何か。
おでこがむずがゆいような、熱いような、ヘンな感じ。人に、額に指をつきつけられると、こんな感じがする時があるんだけど……とにかく、そういう感じなのだ。
「やっぱり分かるんだ、如月さんにも……」
「えっと、これって……?」
「DEMONは、普通、周囲に次元の歪みを残すんだよ。D.D.は、その次元の歪みを感じることができるんだ」
顔を上に向けたままで、あたしと目を合わせずに、譲木くんは説明を始めた。
「次元の、歪み? ナニそれ?」
「何って言われても……今、僕や君が感じ取ってるこれだ、としか言いようがないんだけどね」
「これ……?」
「D.D.もいろいろでね、次元の歪みが“見える”人もいれば、“聞こえる”人もいる。そのしるしを、匂いや皮膚感覚で感じるって人もいるんだ。もっと、説明のつかない……第六感みたいなもんで感じる人も、多いけど」
「ふうん……」
よく分かんないけど、とにかく、今のあたしのおでこの感じは、ひどく妖しげな超能力の一つだって言いたいらしい。透視や千里眼ってわけじゃないから、すごく地味だけど。
「まあ、普通の人だって、いわゆる“気配”で、空間の歪みを感じ取ることもあるんだけど……D.D.は、それをはっきりと感知できるんだよ」
「あ、あたしは……あたしって、D.D.なの?」
思わずあたしは、訊いてしまう。
「結界に入ったことがあったでしょ」
無造作に、譲木くんは言ってのける。そんな風に言われたって、はいそーですか、とすぐに納得できるようなことじゃないんだけどなあ。
「確かにまあ、君は、D.D.T.で訓練受けてないから、自覚もできないかもしれないけど……」
「だって、話が非現実的すぎんだもん」
口を尖らすあたしに、譲木くんは苦笑いして軽く肩なんかすくめてる。
が、すぐに真顔に戻った。
「とりあえず、今日のところは、帰ったほうがいいよ」
「譲木くんは、一人で、どうするの? それに……そうだ、中には、氷川さんがいるんだ!」
あたしの大声に、譲木くんは目を大きく見開いた。
「氷川さんって……同じクラスの!?」
「そうよ。彼女、この建物の中に入って、まだ出てきてないの」
と、その時、派手な音を立てて、入り口をふさいでたベニヤ板が引っくり返っていた。
「なに?」
思わず振りかえるあたしの体に、どん、とちっちゃな人影がぶつかる。あう、そこは、みぞおち……。
べちゃ、とあたしは無様にお尻を地面についていた。
痛みにじわっと涙で濡れる視界のはしに、走り去る氷川さんの姿が見える。
「氷川さん!」
そう叫んだ後、譲木くんは、駅の方角に向かって駆け去る彼女と、何もなかったかのようにそびえる廃ビルを交互に見て……そして結局、尻もちをついたままのあたしに、手を貸してくれた。
「ありがと」
立ちあがりながら、いちおう、素直に礼を言っとく。あうー、スカートどろどろ。靴どころの話じゃなくなっちゃった。
「その……どういたしまして」
なんだか、妙に照れてる譲木くん。
「えっと、今の、氷川さんだったよね」
「多分」
仮にもクラスメートだと言うのに、あたしも譲木くんも頼りない。まあ、譲木くんは、実のところは転入生なんだけど。
「どうしたんだろう……? 何かに、怯えてたみたいだったけど」
「そう? あたしには、なんだか、泣いてるみたいに見えたなあ」
「泣いてる? ……泣くほど怖かったってことかな?」
そういう譲木くんの顔は、冗談を言ってるようには見えなかった。
「そんなんと違う、と思う」
一応、ツッコミ入れとく。
「何にせよ、この建物の中に、何か氷川さんが逃げ出すようなものがある、ってことなんだろうけど……」
そう言いながら、譲木くんは、ぽっかり開いた四角い入り口から、中をのぞきこんだ。
好奇心には勝てない。あたしも、譲木くんの後ろから、そっと様子をうかがってしまう。
「氷川さんがここに入って、そんなに時間、たってなかったと思うけど」
そして、譲木くんの後頭部に向かって、そう教えてあげた。
「どれくらい?」
「って言われても……」
「屋上に上がって、戻るくらいの時間はあったかな?」
「すぐに戻ってくるくらいの時間だったら、ありそう。帰りが駆け足ならね」
そんな会話をしてるうちに、建物の中の暗がりに、だんだん目が慣れてくる。
灰色一色の、がらんとした、コンクリートむき出しの小さなホール。奥に、エレベーターが入るはずだったらしい空洞と、階段につながる通路が見える。
「あ!」
その譲木くんの声に、びくっ、とあたしの体が震える。
「ど、どうしたの?」
「いや、ゴメン、大声出すつもりじゃなかったんだけど……」
そう言いながら、譲木くんは床を指し示す。
タイルなんか貼られていない、コンクリートの床には、誰が捨てたのか、びっくりするくらいゴミが散らばっていた。そして手前には、今まさに氷川さんが倒したばかりのベニヤ板がある。
「何? 何があるの?」
「いや、あの板」
そう言われて、あたしも思わず、声をあげそうになった。
例のベニヤ板に、ゴシック体で「氷川建設」って、書いてあったのである。
「氷川」なんてのは、けっこう珍しい名字だ。ってことは、氷川さんは、あの建物を建ててる最中にツブれちゃったっていう建築会社の関係者なんだろうか?
断定はできないけど、そうであっても、不自然じゃない。
「……」
譲木くんは、何か覚悟を決めたような感じで、建物の中に入っていった。
あたしも、それに続く。
「如月さん」
とがめるような声を、譲木くんが出す。
「ここは危険だって、言ったろ」
「言ってたね。あと、あたしもD.D.だ、って」
「でも……」
「一人より二人のほうが心強いでしょ。……そう言えば、乾さんは?」
「乾さんは、まだこの事件には関わってないよ。僕の役目は、これが超常事件かどうか、見極めることだし」
「ちょうじょう、じけん?」
「DEMONや異次元が絡んだ事件かどうか、ってこと」
「ふーん……って、ここで、事件があったの?」
「まだ、事件ってほどじゃないけどね」
階段の方まで歩きながら、譲木くんは言った。その間も、視線を周囲に巡らせ、油断なくあたりをうかがってる。
「夢遊病が、多発してるんだ。この廃ビルを中心に」
「へえ……夢遊病、ねえ……」
そりはまた、ずいぶんと浮世離れしたお話だ……と、あたし以外の人なら思うだろう。
でも、睡眠障害のあたしとしては、あんまり、他人事のようには思えない。つーか、睡眠期のあたしなんか、夢遊病患者そのものだもん。
「だいたいは、途中で目が覚めて、家に帰ってるんだけど、この廃ビルの前まで歩いてきちゃった人もいる」
そんなことを言いながら、譲木くんは階段を上りだした。あたしも、努めて自然なタイミングで、それに続く。
「もしかして、譲木くんがそのこと、調べたの?」
「違うよ。これは、聞き込み担当の人の受け売り。僕は、現場で次元の歪みを探知するのが役目さ」
「役目?」
「そう。それで、超常事件だってD.D.T.が判断すれば、事件解決のために訓練を受けたD.D.が派遣される。僕はまだ、そこまで能力が強くないから」
平然とそんな話をする譲木くんは、クラスでおとなしく座ってる彼とは、全然別人に見えた。
「……ところで、その、夢遊病のヒトたちは……何か聞こえたって、言ってなかった?」
くる、と譲木くんは振り返った。
「なんで知ってるの?」
「いや、あたしも、聞こえたからさ。へんな、歌みたいな声」
あたしは、ブンちゃんに聞いた例の噂話もオマケして、あたしが聞いた奇妙な歌声のことを話してあげた。
「その声を聞いて、あたしは、なんだかおかしくなっちゃったわけ。多分、あの氷川さんだってそうでしょ」
「……となると、コレはいよいよ……」
考え込みながらも、譲木くんは、階段を上ってく。いよいよ、最上階。
そして、譲木くんはさらに上って、屋上までの階段に足をかけた。
階段の途中で立ち止まり、耳をすます。
あたしも、つられて耳をそばだてた。したしたと雨粒が建物を叩く音が、ただ続いているだけだ。あの歌声も、今は聞こえない。
譲木くんは、ナップザックを前に抱えなおし、中に右手を突っ込んだ。出した時には、その手には黒光りする拳銃が握られてる。
「あーあ、学校にてっぽーなんか持ってきて」
「普段は隠してるから、大丈夫」
意味ありげにそんなことを言って、譲木くんは、拳銃を構えたまま、屋上に至る出口の端の壁にぴったりと身を寄せた。
屋上に続く階段の半ばあたりで、あたしはそんな譲木くんを見上げてる。
と、その時、背後から、異様な冷気があたしの背中を叩いた。
「んっ!」
悲鳴を飲み込んで、あたしは振り返る。その気配を察したのか、譲木くんもこっちを向いた。
白い、人影が、廊下に佇んでる。
ぼおっと霞のかかったような、あやふやな輪郭の人影だ。まるで、霧の向こうにいる人みたい。
「……ゆ……」
幽霊、だ。
今までそんなモノがいるなんて半信半疑だったにも関わらず、会ってみると、確かにソレが幽霊だって分かる。
その白い人影は、まるで煙みたいにゆらゆらとゆれながら、こちらに近付いてくる。その周辺の空気は、妙に冷たく、肌がぴりぴりするくらいだ。
幽霊の造作は、はっきりしない。辛うじて、まとっている服みたいなものと、長い髪の毛から、女の人らしい、ってことが分かるだけ。
「如月さん、下がって……」
かすれた声で、譲木くんが言った。
「結界に、あいつを引きずり込む」
「え?」
「ああいう精神体には、銃弾は効かないんだ。でも、結界の中なら、精神体も実体を持つから……」
???
譲木くんの言うことは、さっぱりわからない。
とにかく、彼はすごく緊張してる。本当だったら、こういう幽霊なんかと正面衝突するつもりはなかったのかもしれない。……この幽霊も、つまり、DEMONなんだろうか?
「きゃっ!」
思わず、あたしは悲鳴をあげていた。今までのろのろとしか動かなかった幽霊が、いきなり、すごいスピードで階段を上り、あたしに迫ってきたのだ。
耐えきれないほどの寒さが、あたしを包む。
「如月さん!」
逃げようと思って振り返りかけたあたしの視界の端に、譲木くんがこっちに向かって階段を駆け下りてるのが入ってきた。って、あぶない、ぶつかるよ!
違う。譲木くんは、驚きのあまりすくんでしまったあたしを動かそうとしたのだ。強引にあたしの肩を抱くようにして、階段を飛び降りるように下る。
あたしの肌を、凄まじい冷気がかすめた。
視界が、ぐるん、と回転する。足元に階段がない。あたし、今、階段から転げ落ちてる!
どん、というショックがあった。意外と柔らかい感触が、無格好に倒れたあたしの体の下にある。
「う……」
うめいてるのは、譲木くんだった。あたしをかばおうとしたのか、受身が取れなかったのか、とにかく、あたしの体の下で、譲木くんが倒れてる。
「だ、だいじょぶ?」
あわてて起き上がりかけるあたしに、またも幽霊が迫ってきた。
「うひゃ……」
人間、驚いてるときは、どんな声を出すか分からない。あたしはひどく間抜けな声をあげながら、迫り来る幽霊の顔をみつめていた。まさに、ヘビににらまれたカエル。
吐く息が白くなりそうな強烈な冷気をまとった幽霊の顔が、すぐそばまで近付いてくる。ここまで近付くと、どうにか、その造作も分かるようになった。
悲しそうな、ものすごく悲しそうな顔をした、女の人。
「違う……」
そのひとは、すごく無念そうに一言そう言った。
そして、きびすを返して、今さっき、あたしと譲木くんが上っていた階段を、するすると滑るように上り出す。まるで、宙に浮かんでいるような、そんな移動のしかたである。
階段の先は、屋上だ。
そして、幽霊が、視界から消えた。
あたしはほっと息をつき……
「き、きさらぎ、さん……」
そして、あわてて、お尻の下から譲木くんを解放した。
あたしの顔がそのときどれくらい赤くなってたか分からない。
譲木くんは、右足を捻挫していた。
ごめんねぇ。