第一話
『深夜の校舎』
第二章



 譲木くんには、友達がいない。
 多分。
 彼が、クラスの誰かと親しげに話をしているところを、あたしは見たことがない。別に、イジメられてるんじゃないんだろうけど、いつも無口にしてた。
 フルネームは、たしか、譲木拓馬くん。「たくま」って名前はともかく、「ゆずるぎ」って名字はかなり珍しい。
 背丈は普通なのに、線が細いせいか、すらっとして見える。あれで、もう少し愛想があったら、女子の人気ももう少し高かったかもしれない。でも、クールなコ、って言うには、顔がやさしすぎたような気がする。
 よく見てたな、あたしもさ。
 でも、正直、あんなもの渡されるまでは、彼を特に意識していなかったと思う。一回だけ、席が隣になったけど、別段、親しく話をした記憶もなかった。
 で、一週間ぶりに登校してきた彼なんだけど……。
(違う)
 ちょっとしたクラスのざわめきの中心にいる彼は、なんだか前の彼と違って見えた。
 ほんの少しだけ癖のある柔らかそうな髪をオールバックにした頭に、白い包帯を巻いている。その包帯の下の目が、なんだか、違うのだ。
 なんて言うと、まるであたしが譲木くんのことをよく知ってるみたいだけど、さっきも言ったように、そうじゃない。自分で言うのもなんだけど、覚醒期のあたしの勘は、妙に当たるのだ。普通の不眠症と違って、覚醒期、あたしはすごく冴えてる。入学試験のとき、覚醒期でなかったら、あたしはこの学校には入れなかっただろう。
 それはさておき。
 ひさびさに登校してきた譲木くんは、なんだか怖かった。
 いつも、周りに壁を立ててる感じの人だったんだけど、今はその壁が高くなってる。
 目が、怖い。
 って言うか、なんだか周囲のあたしたちに、必要以上の警戒感を抱いているような、そんな感じがする。クラスに生じるいかなる兆候も見逃すまいとするような、油断のない目つき。
「譲木、なんだか変わったね」
 二限目のあと、ナナミの方から、あたしとブンちゃんにそう言ってきた。
「事故で頭打ったからかな」
 真面目なのか冗談なのか、とりあえずナナミは笑ってない。
「そんなこと言うもんじゃないわ、七宮さん」
 優等生的な言い方が嫌味にならないのは、ブンちゃんの人徳か、それとも癒し系の顔のせいか。ま、いいか、どっちでも。
「ブンちゃんは、そう思わない?」
 ナナミは、真顔を崩さない。
「あたしは……あまり、譲木君とはお話したこと、なかったから」
 あたしたちの視線の先で、譲木くんは、机に座ってかなり年代ものっぽい文庫本を読んでいる。読みながら、ちら、と時々、周囲に目を配る。
 目が合った。どきん、と心臓が跳ね上がる感じ。
 けど、譲木くんはすぐに手元の文庫本に目を戻す。
 少しだけ、ほんの少しだけだけど、かちんときた。
「どうしたの、如月さん」
 ぎく。表情に出たかな?
「別にィ」
 努めて無感情にそう言う。
 結局、今日一日、譲木くんは、あたしを含めて誰とも会話らしい会話をしなかったみたいだった。



 その日、あたしは一人で家路についた。ナナミは元気よくトラックを駆け回り、ブンちゃんは図書委員会の当番である。
 駅までの道を歩き、各駅停車の電車で二駅。駅からは自転車だ。
 退屈な駅までの道、小さな川べりに植えられた桜が、青々と葉っぱをしげらせてる。
 汚い水の流れる川をまたぐような感じの、歩行者専用の橋をわたりながら、あたしは葉桜を眺めながら考えを巡らせる。
 あれが、机から無くなったことと、譲木くんの態度の変化には、何か関係があるんだろうか?
 データ不足なのは分かってる。問題は、どっち方面から重点的にデータを集めるかだ。
 クラスの中での、譲木くんの人間関係を調べてみるか、それとも、譲木くんが事故った件について探ってみるか……。
 スパイか探偵の気分♪
「すいません」
 いきなり、背後から声をかけられた。
 うわ。
 振り返ると、そこに、美形が立っていた。
 見上げるほどのすらりとした長身に、背中まで伸ばした、癖のない漆黒の髪。鼻梁はすうっと通り、涼しげな二重の目とあいまって、どこか日本人離れしてる。髪の毛と同じ色の真っ黒いスーツをまとい、口元に、完璧な微笑みを浮かべてる。
 うさんくせえ。
 我ながらひねくれたことに、第一印象はそれだった。
 もう少し、服装とか表情とか、どこかもう少し崩れてたら、あたしもどうなっていたか分からない。でも、目の前にいるこの人は……。
「如月雪乃さんですね。星倫高校、二年F組の」
「は、はい」
 気持ちを整理する間もなく、あたしは答えていた。
「私は、保険会社の調査を請け負っている者なんですが、少々、お話よろしいでしょうか?」
「えっと、うち、保険は間に合ってると思う」
 結局、なんだかんだ言っても、その美貌に圧倒されてしまっているのだろうか。あたしは、今すごく間抜けな声出してる。
「いえ、そうではありません。私、あなたのクラスの、譲木拓馬君の事故について、色々な方にお話をうかがっているところなんですが……」
 そう言いながら、身分証明書らしきものを胸から取り出す。そこには、「N−Yリサーチ・サービス/御影一郎」なる文字が印字されていた。「みかげ」って読むんだろうか?
「はあ……」
 何となく、毒気を抜かれるあたし。
「ご存知かもしれませんが、損害保険の査定には、様々な裏づけが必要となります。私は、譲木君が受け取るべき保険金の適正な額を確定するために、様々な情報を集めているところなのです」
「それは、例えば?」
「そうですね……学校生活において、譲木君の様子に変わった点は見うけられませんでしたか?」
「えっと……」
 答えて、いいもんだろうか?
 そもそも、何をどう答える?
 なんて、あたしが考えてるとき
「御影ッ」
 と、大きくはないが、低く、それでいて鋭い声が、あたしの耳朶を打った。やっぱ、「みかげ」でよかったみたい。
 あたしが反応するより早く、つい、と目の前の美形が目をそらす。
 うわっ。
 目をそらされたとたんに、あたしは、正気に返っていた。
 ついさっきまで、あたしは、この御影さんとかいう男の人に、見入られてたのだ。そのことを、視線を外されて唐突に理解する。
 黒い、夜空のように暗い色をした瞳の残像が、初めてあたしの視界に現れた。催眠術だかなんだか知らないけど、あたしはこの人の術中に見事にはまっていた。
 でも、もし……もし、その美貌を利用した催眠術だとしたら……なんてヤローだ。
「乾さんですか」
 橋の上に現れ、御影さんに「いぬいさん」って呼ばれたのは、なんかすごく人相の悪い人だった。
 黒眼鏡に黒づくめの服、爬虫類っぽい顔をして、頭には一本も髪がない……
 あ。
 思い出した。
 夢に出てきた、あの人だ。
「今度は、何を探ってるんだ……?」
 言いながら、乾さんと呼ばれたその人は、こちらに歩み寄りながら、黒いジャケットの内懐に右手を突っ込んだ。ハリウッド映画なんかで、登場人物が拳銃を取り出す時の、あの動作だ。
 あたしの記憶の中でも、この人は拳銃を持っていた。つーことは、コレはマジなわけだ。
「やだなあ、私は、本来の仕事を忠実に果たしているだけですよ」
 物騒な乾さんの仕草に関わらず、御影さんはその顔に涼しい笑みを浮かべている。
 しかし、その言葉には、奇妙な違和感があった。今のあたしなら分かる。こんな綺麗に髪の毛を伸ばしたサラリーマンなんて、いやしない。
「とりあえず、ここは退散しますよ。ですから、あまり人目につくようなことはやめましょう。お互いに、ね」
 そんなコトを言いながら、御影さんは颯爽と歩み去ってしまう。乾さんは、その御影さんの姿が消えるまで、黒眼鏡の奥の目で、じっと追っていた。
 しっかし、冗談でなく「颯爽と」なんて表現が似合う人なんて、いるとは思わなかった。
 なんて、場合じゃない。
 あたしは、乾さんのほうに向き直った。薄い唇の大きな口をへの字にひんまげ、間違いなく苦々しげな顔でこっちを見ている。
「……」
「……」
「……あ、会いました、よね」
 沈黙に耐えきれず、あたしは訊いていた。
「何の話だ?」
「とぼけないでください! あの日の夜中、譲木くんと学校にいたでしょ!」
「……」
 自分でもびっくりするようなあたしの剣幕に、乾さんは、何か考え込んでいる様子だった。
 そして、大きくため息をつく。
「分かった。認めよう。俺は、お前さんと会ったことがある」
 やっぱり……!
 やっぱりあれは、夢じゃなかった!
「だが、そのことは忘れていたほうがいい。いや、忘れるのが無理だったら、とりあえず、おとなしくしているんだ。少なくとも、もうあの男と会うのはやめとけ」
 まるで、初対面の人間に言うセリフとは思えないような、無遠慮な口調だ。これじゃ、反感を持つなって方がムリだと思う。
「なんでですか?」
 挑むように、あたしは乾さんに一歩踏み出す。
「命が危ないからだ」
 ぼそっ、と乾さんは言ってのけた。
「半分以上は、俺のミスだ。結局、これでお前さんにも、奴の注目を集めることになっちまった」
「奴、って……?」
「あの男と、その仲間だ」
「なかま?」
「しゃべりすぎたな……」
 乾さんは、右手で黒眼鏡を直して、あたしに背を向けた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 仲間って何です?」
「……」
 あたしの抗議など聞こえぬ素振りで、乾さんが、駅とは反対側の道を行こうとする。
「待ってってばあ! 待たないと、あの御影って人に、あることないこと喋っちゃいますよ!」
 乾さんが振り返る。一応、これは効いたらしい。
「なんだよ、あることないことって」
「だから、譲木くんのこととか、あのミミズお化けのこととか……」
 ちっ、と乾さんが舌を鳴らした。けど、あたしは気にせず続ける。
「せめて、なんであたしの命が危ないか、教えてください! 知らないと、かえって危険でしょ!」
「言っても、お前さんには何のことやら分からんさ」
「気持ちの問題です!」
 乾さんの言うことももっともだけど、ここで引き下がったら糸が切れちゃう。あたしは、必死に食い下がった。
「それだけ言えば、気がすむのか?」
 やたっ、という表情が浮かぶのを慌ててこらえて、できるだけ真面目な顔で、あたしは肯いた。
「……奴の仲間が、お前さんを殺す……かもしれない」
 乾さんが、しぶしぶ、といった口調で言った。
「だから、その仲間って……」
「人類結社」
 ぽつん、と小石を放るように、乾さんが呟いた。
「へ……?」
「約束だ。これ以上、下手に深入りするな」
 そして、結局、乾さんは行ってしまった。
 ちっちゃな橋の上、あたしだけが、ぽつんと残される。
 しばらくそうした後、あたしは、学校に続く道の方に、一歩踏み出した。



 学校に戻ってまっすぐ、あたしは図書室に入っていった。
 うちの学校の図書室は、他のところと比べて、かなり広いらしい。ただ、いつも薄暗い上、今はそろそろ閉室の時間なので、利用者の姿も少ない。はっきり言って、不気味だ。
「あら、如月さん、珍しいわね」
 カウンターの奥の司書席に座って本を読んでいたブンちゃんが、あたしに気付いて顔を上げた。
「ちょい、調べもんをネ……」
 別に言い訳なんかしなくていいのに、あたしはそう言った。
 でも、どこを調べりゃいいんだろ? 社会? 経済? 歴史? 文化?
 そんなことを考えながら、分厚い本の並ぶあたりを、ぶらぶらしてるだけのあたしに、ブンちゃんが声をかけた。
「如月さん……調べものだったら、これ、使ってみる?」
 ブンちゃんが示したのは、図書室備え付けらしきパソコンだった。おお、そんな文明の利器がここにあったんか。
「……どう使うの?」
「とりあえず、キーワードになるような言葉をここに入力して、この検索ボタンをクリックすればいいんだけど……」
「きーわーど、ねえ……」
 あたしは、あまり深く考えず、そのままズバリ、「人類結社」と入力した。漢字は、多分これであってるよね。
「……人類結社?」
「え、知ってるの?」
 意外そうな声を出したブンちゃんに、あたしは向き直る。なんだよ、一介の女子高生でも知ってるような組織かい。
「聞いたことだけは……。ほら、世界史の授業で、中世ヨーロッパの徒弟制のお話を加賀見先生がされたとき、ちょこっと出てきたじゃない」
「憶えてないよー、そンなこと」
「そ、そう? 確か、何かのギルドが、キリスト教の神秘主義と結びついて、秘密結社になっちゃったとか……」
「それ、一年のときのことでしょ。テスト終わったら忘れたあ。……って、おや、出てきたね」
 驚いたことに、問題の人類結社の名を冠した本の名前が数冊、コンピュータの画面に表示される。どれも、貸し出しされてない。
「えーと、『人類結社の真実』に『聖書・錬金術・人類結社』『人類結社・世界征服のシナリオ』『人類結社とユダヤの陰謀』……って、ナニこれ?」
「だから、オカルトとか陰謀史観の本でしょ」
 ちょっと困ったような笑みを浮かべながら、ブンちゃんが言う。
「いんぼー?」
「そう。アメリカ大統領が宇宙人と会ってるとか、サブリミナル効果で大衆が洗脳されてるとか……」
「よく知ってるねー、ブンちゃん」
 あたしの、あまり素直でない賞賛の言葉に、ブンちゃんがちょっと顔を赤くする。
「たまたま読んだ本に出てただけよ」
 どういう本だよ、そりゃあ。
 というセリフを飲みこんで、あたしは表示されてる本を全部借りることにした。
「ぜ……全部読むの?」
「まーね」
 両手に本を抱え、あたしはにこやかに微笑む。コレは、ロッカーの中に入れっぱなしの紙袋で運ぼう。
「覚醒期だから、ちょーどいいの」
「でも……それなら、もっとロマンチックな本を読めばいいのに」
「例えば?」
 ちら、とブンちゃんは自分が読んでいる本の背表紙をあたしに見せた。『澁澤龍彦全集・第十七巻』とある。
「全部で何巻?」
「全二十二巻、別巻一」
 ちょっとうっとりした顔で、ブンちゃんが答える。
 あたしは、そんな彼女にあいまいな笑顔を見せながら、図書館を後にした。



 んで、全部読んだ。
 この時期、あたしはバルビトール睡眠薬でも服まないと眠ることはできない。今夜はそれをサボって、夜通し読書に当てた。
 実は、正直かなりナナメ読み。
 それでじゅーぶんな内容だった。
 ある本では、人類結社が悪魔崇拝の結社だってことになってるし、別の本では世界の巨大資本の総元締めだってことになってた。あと、ユダヤ人が世界征服のために組織した団体だって言ってる本もあれば、宇宙侵略者の尖兵であるって主張の本もあった。
 いずれの本も、同じようなパターンで人類結社なる連中を悪者にしていながら、ぜんぜん別のことを言ってる。しかも、そのほとんどが、あたしでも分かるくらい根拠の薄い妄想なのだ。
 明け方近く、かなり精神的な疲労を覚えながら、思い余って父さんの百科事典を開いてみた。
 ずっこけた。
 堂々と載ってたのだ。
 なんで、悪の秘密結社について、百科事典が解説してんのよ?
 けど、百科事典によると、人類結社は秘密組織でもなんでもなかった。
 なんでも、「十七世紀ごろにヨーロッパで起こった、世界市民主義的・自由主義的友愛組織」なんだそうだ。その前身は、ブンちゃんが言っていた通り、中世ヨーロッパの同業組合、つまりギルドで、「本来政治的陰謀をこととする秘密結社のごときものではない」と、はっきり書いてある。んでもって、「そのコスモポリタニズム(国際主義ってコトかな?)、および合理主義、個人主義、啓蒙主義のため、しばしば政治的ないし宗教的な猜疑と迫害の対象となった……」んだって。ちなみに、この「猜疑と迫害」ってのは、十八から十九世紀頃、市民革命の時代の話。
 なあんだ。
 あの本の著者どもは、ゆうに一世紀……もうすぐ二世紀は時代遅れなわけかあ。
 がっくりと、疲労が倍化した。
 ちなみに、現在の人類結社に、世界中の資産家や、高名な芸術家、科学者が属しているのは本当らしい。んで、その主張は、国家・民族・宗教の垣根を越えた「人類主義」……つまり、人間てものをすごくポジティブに肯定した考え方。それに基づいて、国際平和や差別撤廃、学問振興なんかにお金を出してるって話だ。
 ぜんぜん悪の秘密結社なんかじゃない。どことなく、優等生的うさんくささを感じるけど。
「つーことは、あの乾さんも、人類結社いんぼー説にどっぷりハマってるってことなんだろうか?」
 声に出して言ってみると、かなり笑えるけど、笑ってばかりはいられない。
 乾さんが、夢や幻覚の作り出したキャラでないってことは、あのミミズお化けはホンモノだってことだ……。
 それから、壊れた教室の謎。
 机の中から消えたもの。
 あたしは、真顔に戻った。
 一つ一つ、確かめなきゃいけない。
 まずは……やっぱり、譲木くんからだ。
 あたしは、気合を入れて熱いシャワーを浴びた後、制服に袖を通した。



 物事には、タイミングってもんがある。
 人に話しかけるにも、タイミングが大事だ。
 それが、ややこしい話だったら、なおさらである。
 何が言いたいかってえと、あたしは、譲木くんにタイミングを外されっぱなしだったってことだ。
「あのっ、譲木くん」
 一限目の最初の休み時間、あたしは、廊下で譲木くんに声をかけた。
「なに?」
 答える譲木くんの声も態度も、妙に構えてる。
「話、いい?」
「話?」
「あの……ちょっとここじゃ何なんだけど……」
 あたしは、廊下の人ごみと、そしてドアの向こうからこっちを覗いてるナナミの視線を気にしながら、言った。
「悪い。ちょっと用事があるんだ」
 あんまり男っぽくない、中性的って言うんだろうか、そんな声で、譲木くんが言う。
 思えば、これが今日、最初で最後のチャンスだったんだ。その場で思いきって訊くか、別の場所に強引に引っ張ってけばよかったかもしれない。
 でも、あたしは肯いてしまった。
 一つには、譲木くんが何だか辛そうに見えたからでもあるんだけど……。
「悪いね」
 そう言って、譲木くんは廊下の向こう側に行ってしまった。
「へっへっへー」
 教室の中に戻ってきたあたしを、ナナミが妙な笑い声で出迎える。けど、ふと、真顔に戻って、それ以上は何も言わなかった。
 なんだろ。あたし、そんなに深刻そうな顔、してたんだろうか? ナナミのからかいを封じるくらい。
 ホントに問題だったのは、それからだったんだけど。
「先生」
 二限目が終わろうって時に、唐突に、譲木くんが手を挙げたのだ。
「気分が悪いんで、保健室に行っていいですか?」
 残りはあと五分くらい。それに、まだ譲木くんは頭に包帯を巻いてる。サボリの言い訳には聞こえない。
 あっさりと先生の同意を得て、譲木くんはするりと教室を出ていってしまった。
 そのあと、行方不明。
 ありゃりゃりゃりゃ。
 担任の烏丸先生に訊いたら、早退したらしい。先生は、譲木くんのケガのこと、本気で心配していた。
 でも、あたしはそうじゃなかった。
(逃げたな)
 直感的に、そう思ってた。あたし、あんまりイイ奴じゃない。
 だけど、ここであたしまで早退するのは露骨過ぎる。六限の終わりまでの数時間、あたしはじりじりと時間が経つのを待った。
 そして、終業のチャイムと同時に、普段は使わない学校前のバス停までばたばた走り、ちょうどやってきた路線バスに飛び乗る。
 名簿で調べた譲木くんが住んでるはずの町まで行くバスだ。
 くわしい場所は、休み時間の間、図書館にある住宅地図で調べて、コピーを取っといた。行ったことのない町の一角、家を示す小さな四角の中に、「譲木」って名前が書いてある。間違いない。
 一瞬、乾さんの姿が、その警告とともに、頭の中によみがえった。
 うう、回想モードでも物騒な顔。
 でも、後戻りはできない。そもそも、ケガで早退したクラスメートのとこにお見舞いに行くのが、乾さんの言う「下手な深入り」にあたるかどうか。
 詭弁だな。自分でも分かってる。そもそも、この事件に深入りするために、あたしは譲木くんと話をしようとしてるんだから。
 いや、ちょっと違うかな?
 あたしの訊きたいことは、そんなに多くない。
(下駄箱にアレを入れたのは、本当に譲木くんなの?)
(どういうつもりで、そんなことしたの?)
(そのあと、机に入れっぱなしだったアレを取ってったのは、君なの?)
(だったら何でそんなことしたの?)
(乾さんや、あのミミズのお化けや、美形の御影さんとは、関係あるの?)
 みんな、瑣末なことだ。ホントに訊きたいことは、一つだけかもしれない。
(……あの手紙には、なんて書いてあったの?)
 ハートマークこそついていなかったが、しゃれた封筒に丁寧に入れられた、わりと厚めの手紙。開封してないんで、何枚だか分からないけど。
 如月雪乃さま
 譲木拓馬
 男子の字にしてはすごく丁寧な、青い水性ボールペンの字。
 ちきしょ。
 顔が、熱くなってきた。



 野原の中の一軒家。
 それが、譲木くんの家だった。
 ものすごくボロっちい、茶色いペンキをべったりと塗られた、木造の平屋だ。家全体が、なんとなく傾いてる感じ。
 そういう家が、かつては周囲にたくさんあったんだろう。要するに、あたしたちが生まれる前に立てられたような借家である。
 でも、その区画のほとんどが取り壊されてる。地図だと、まだ何軒かの家が残ってることになってるんだけど、残っているのは、譲木くんち一軒だけだ。
 そこは、ごみごみした住宅街と、小さな雑木林と、そして建築中のマンションに囲まれた、草ぼうぼうの空き地だった。
 多分、譲木くんの家が無くなったら、ここにもマンションか何かが建てられるんだろう。
 車なんか通れないような狭い道に面したその家の玄関の前に、あたしは立った。道路から玄関まで、一歩で行けるくらい。
 新聞受けには、何もなし。
 あたしは、機能してるのかどうか分からない、古びたブザーを押した。ピンポンとかチャイムじゃない。それはまぎれもなくブザーだった。
 応答無し。半ば、予想通り。しっかし、どこ行っちゃったンだか。
 どうしよう。ここで待ち伏せるか、学校に戻るか。
 でも、なんでクラスの男子と話をするために、こんな苦労してるんだろ? 明日になれば会えるはずなのに。
 ちょっとだけ、バカらしくなってくる。
「ふー」
 あたしは、ちょっとため息をついて、人通りのない道路の方を振り返った。そして、背中を、立て付けの悪そうな譲木くんちのドアに預ける。
 がく。
 うわあ。
 あたしは無様にひっくり返っていた。
 ドアが、外れたのだ。
 がっしゃあん、とド派手な音を立てて、ドアが倒れ、あたしがその上に仰向けになる。
「動くな!」
 ピストルを、つきつけられた。
 あたしの頭上に当たる場所、玄関に続く廊下に、学生服姿の男子が立ってる。ピストルは、その両手に握られていた。譲木くんだ。なんだ、いるじゃんよ。
 うふふ、すげービビった顔してる。
 思わず、声に出して笑ってしまった。
 笑ってる場合じゃないんだろうけど、こみあげてくるもんはしかたない。
「き……きみは……?」
 その時、遠くから車の音が聞こえた。車通りなんか全然ない所なんで、すごくうるさく響いてる。
「しまった……!」
 今度は、なんだか焦ってる。忙しいヒトだな、君は。
「こっちへ!」
 ぐい、と意外なほどに強い力で手を握られ、引っ張り起こされた。そして、そのまま家の奥に連れてかれる。
「ちょ、ちょっとぉ」
「静かにしてて!」
 強引すぎるエスコートに抗議しかけるあたしに、譲木くんは鋭い声を浴びせた。
 そして、きょろきょろとさして広くない家の中を見まわし、いきなり、納戸に飛びこんだ。生活のためのガラクタがごちゃごちゃと詰め込まれた、二畳ほどの空間である。
「ぎゅー、せまいー」
「黙って……!」
 言われて、ものすごい近くに譲木くんの顔があるのを発見した。その表情が、堅く緊張してる。
 車の音が、すぐ外で止まった。
「なんだ、開いてるぞ……?」
 そんな声とともに、どかどかという靴音が、家の中に入ってきた。
 おーい、靴くらい脱げ〜。って、よく考えたらあたしも脱いでない。
「廃屋か?」
「……そうかもしれません。住所情報は、入学当時のものでしたし」
 聞いてみると、だいたい三人くらいの、大人の男の人の声だ。
 譲木くんは、納戸のドアを細く開けて、外の様子を伺ってる。あたしも、強引にその顔の下に頭を突っ込み、隙間から外を見た。
 よくわかんないけど、やっぱり三人くらいの人が、譲木くんちを家探ししてる。みんな、まるで運送屋みたいな作業着を着て、手に手に黒いものを握ってる。
 こっちもピストルだ。なんだか、譲木くんが持ってるのより、大きいみたい。それに、銃身のところに、ぶかっこうな筒がくっついてる。
 あ、あれだ、サイレンサーって奴。
「あまり、派手にされない方がよろしいのでは?」
 第四の声が聞こえた。聞き覚えのある、涼しい声だ。
「功を焦るあなたがたの気持ちは、分からないでもないのですが……」
「御影君は、黙っていたまえ」
 三人の中で、いちばん年かさそうな声が、言う。なんと、第四の男は、御影さんだったのか。
「そもそも、君は結社の人間ではない。ただの外部協力者だろう」
「そうですよ。だからこそ、あなたがたとともに行動しても、中央に情報が漏れることはないのです」
「……脅すつもりか?」
「まさか。ただ、外部の者として、ご忠告しているまでです」
「……」
 すごく敵対的な沈黙。
 そんな中、譲木くんの体が、びくっ、て震えるのが、背中に感じられた。
 男の人のうち一人が、こっちに来る!
 その人は、油断なく銃を構えながら、あちこちの扉を開け放っていた。
 ぎいっ、と音を立てて、隣の、おトイレらしきドアを開ける。
 次はココだ。
「山浦」
 名前を呼ばれて、こっちに来てる人の動きが止まった。ちょっとだけ、ほっとする。
「気を付けろ。最近、この家に出入りした跡がある。中に潜伏していることも考えられる」
 わああ、全然ほっとしない!
「了解」
 山浦、って呼ばれたその人が、黒光りするごつい拳銃を構え直し、捜索を再開する。
 納戸の中に、窓はない。そして、唯一の出入り口であるドアに、銃を構えた作業着の男が近付いてくるのだ。なんか、物凄くホラーな気分。
 思わず、あたしは斜め上の譲木くんの顔を振り返った。
 ぎゅっ、とあたしの肩を、譲木くんが掴む。
 そして……
 世界が、スキップした。
 違う、譲木くんが、スキップさせたのだ。
「えええ!?」
 あたしは、思わず声をあげる。
 外の男の人が、忽然と、煙よりもあっさりと消えていた。
「ふぅーっ」
 譲木くんが、大きく溜息をついた。
「僕にも、結界が張れた……」
 そんなセリフを、あたしは茫然とした顔で聞いていた。

第三章へ

目次へ