第一話
『深夜の校舎』
第一章



 眠い。
 それが、あたしの口癖だ。
 眠いから、なんの工夫もなく眠いと言う。頭が働いていない証拠。
 睡眠障害。
 それが、このあたしの厄介な性質に名付けられた名前だ。ただし、睡眠障害といってもいろいろある、単なる不眠症から、ナルコレプシー、睡眠時無呼吸症候群、なんとか、かんとか……。
 あたしの症状は、そのどれとも違う。
 睡眠リズムが、ふつーのヒトと極端に違ってるんだわ。
 あたしの場合、だいたい3週間くらい不眠症になって、そのあと、1週間ぶっつづけで眠りこけてしまう。
 とは言え、1週間、本当に眠り続けで何もしないわけには行かない。ご飯は食べなきゃいけないし、お風呂をサボるわけにもいかない。お風呂はちょっと命がけで、バスタブで眠り込んで溺れかけたことだって、一度や二度ではない。食事中に眠ることなんてしょっちゅうだ。
 それでもあたしは、きちんと毎日学校に通ってる。我ながら、えらいもんだ。
「ふあ〜ア」
 あたしは、ひとつ大きなあくびをした後、カフェインの錠剤を規定の三倍だけ服んだ。
「ユッキ、いつもきちんと目ェ開いてれば、意外と美人なのにね」
 おべんと箱をしまいながら、ナナミがそう言ってくれた。本名、七宮翔子。肩までの栗色の髪に、軽く内側へシャギーを入れた、小柄で可愛いコだ。あたしが男だったら、こーいう妹が欲しくなる、と思う。
「あら、如月さんはいつも美人よ」
「ブンちゃん、よくそンなこと真顔で言えるね」
「どっか、おかしかった?」
 きょとん、と眼鏡の奥の目を見開いたブンちゃんの本名は、若槻文。名前は、よく「ふみ」と読まれちゃうけど、「あや」って読む。でも、あたしとナナミは、「ブンちゃん」で通してる。
 三つ編みに眼鏡。おとなしそうな顔してるんだけど、こっちがちょっと悔しくなるくらい、ぐらまーな体してる。本人はけっこう気にしてるみたいだけど、ぜーたくな悩みだ、と思う。
「女どーしで顔を褒め合うなんて、気味悪いじゃん」
 と、ナナミ。
「ってコトは、さっきの、あたしの顔を褒めてくれてたんじゃなかったわけだ」
「ユッキはいつも眠そーだ、って言いたかっただけ」
「だって眠いんだもん」
「しょうがないわよ。如月さんのは、体質だもの」
 まるで、窓から差しこむ春の日差しのような笑みを浮かべながら、ブンちゃんが言った。入学当時からの付き合いだから、もう一年以上も一緒にいるけど、彼女が怒ってるところ、見たことない。
 その性格のせいか胸のせいか、彼女は男子にかなり人気が高い。確かに、あたしが男だったら、こういう奥さんが欲しくなるかもしれない。少なくとも、こっちが話をしてる最中に、くーかー眠っちゃうあたしみたいな女とは、結婚したくはないだろう。
 ……なんてことをぼんやり考えてるうちに、世界がスキップしてた。
「ほら、今だって寝てたァ」
 ナナミがそう言い、ブンちゃんが困ったように笑ってる。どうやら、あたしがちょっと寝てるうちに、二人の会話が続いていたらしい。
 しかし、二人ともこんなことには慣れっこになっている。ナナミとブンちゃんはお話を続け、あたしはそれを自分のペースで追っかける。
「で、ブンちゃん、本坂にはきちんと返事したの?」
 ナナミは、最近のお気に入りのネタで、ブンちゃんにカラみだした。
「そんな、返事って、言われても……」
 おっとりした顔を、さすがに赤く染めて、ブンちゃんがうつむく。
「ま、友達がいに忠告するなら、あんな大勢の前でコクるようなデリカシーないの、やめちゃいな」
 ナナミが、可愛い顔ににやにやとチェシャ猫みたいな笑みを浮かべる。
「んじゃナナミは、どーいうふうに告白されたい?」
 眠いのを言い訳に、あたしは単刀直入に切りこんだ。
「そおねえ……」
「と、考え込んじゃうあたり、女だなあ」
「やっぱ、ムードが大事かな、乙女だから」
 あたしの言葉に、平気な顔でナナミが応じる。
「夜の公園とか、港とか、あと、夜景の見える丘の上とか♪」
「冗談めかして言ってるけど、ナナミ、わりと本気だな」
「本気ほんき」
 言いながら、なぜかナナミは胸を張る。
「鳥飼君は、あまりそういうタイプに見えないけど」
「アレはァ、ただの幼なじみの腐れ縁!」
 邪気のない顔で言ったブンちゃんに、ナナミが噛みつく。
「腐っていようが何だろうが、人の縁は大切にしたほうがいい」
 どっかで聞いたようなセリフを言うあたし。
「そー言うユッキはどーなのよ!」
 ぎく。
 と、ここでまた世界がスキップ。
 いつのまにか、教室は五時間目に突入していた。すでに動かされた机は直ってる。
 顔を起こしたあたしに、ナナミが、べーとピンク色の舌を出した。
 この厄介な体質に、とりあえず感謝。



 あたしの本名は、如月雪乃。んで、通称ユッキ。とは言え、そういう風に呼ぶのはナナミくらいだけど。
 私立星倫高等学校、2年F組。
 睡眠障害の体質以外は、ごくごく普通の女子高生……だと思う。身長は、ナナミほどちっちゃくないし、ブンちゃんほどスタイルよくない。まあ、並よ、並。
 家族は、仕事が忙しくてなかなか家庭を顧みない父さんと、趣味が忙しくてなかなか子供を顧みない母さん。この三人で、中央線沿線の分譲中古マンションに住んでる。これだって、普通といえば普通だ。
 トレードマークを挙げろといわれたら……なんで? って聞き返すかな。
 あえて言うなら、お気に入りの赤い細身のリボンで結んだポニーテールくらい、だろうか。
 で、そのポニーテールを揺らしながら、あたしは夜の学校向かって走ってる。
 この時期のあたしは、ホント、どうにかしてる。よりによって、あンなものを学校に忘れるとは。
 しかも気付いたのが、一人きりの夕食の後。無論、空は真っ暗で、月が今まさに沈もうとしている。
 その月を隠すように、無機的な四角い校舎が、視界に現れた。
 夜の学校が不気味だということは、もう、言い尽くされているけど、やっぱりそれでも不気味だ。
 昼間、たくさんの人間を収容していた味気のないコンクリートの建物が空っぽになり、だだ広い校庭を前にして佇んでいる。緑色の非常灯の光だけが、デザイン性のかけらもない窓ガラスの奥で光っていた。
 五月だというのに、あたしはぶるっと体を震わせた。
 しかし、寝ぼけて忘れたモノを夜、学校に取りに戻るコトだって、初めてじゃない。すでに確認している、校舎裏のフェンスの裂け目から、するりと敷地の中に侵入する。これだけだったら、保安会社のセキュリティは動かないらしい。
 さらに、鍵が壊れてる一階東の男子トイレの窓を、強引に開ける。さびついてちょっとやそっとでは開かないため、施錠されてると勘違いされてるらしい。
 なるたけ、女子トイレにはない白い陶器を視野に入れないようにしながら、廊下に出て、靴からスリッパに履きかえる。靴はきちんと下駄箱へ。
 薄暗い明かりに照らされた廊下は、外から見るより何倍も寒々しかった。それが、まっすぐに延々と伸びている。まるで、別の世界につながってるみたいだ。
 そんなことを考えてるうちに、また、強烈な眠気が、あたしの目蓋にのしかかった。
 眠い。
 この感覚ばっかりは、他の誰にも分かんないかもしれない。のーみそを含めた体中から、がくーん、と力が抜ける感じなのだ。とにかく、立って歩くということだけでも、気をしっかり持って、意識してやらないと失敗する。脚がもつれて倒れてしまうのだ。
 もう眠りの時期の終わりの方。耐性がついてカフェインの効きも悪くなってる。まだ試したことはないけど、アンフェタミンかメタンフェタミン……つまり覚醒剤が欲しくなる。そういうわけにもいかないけどさ。
 とにかく、二階に上がって、自分の教室まで歩いて、机の中のアレを回収しなくちゃいけない。
 今となっては、明日の朝に、誰にも見つからないようにカバンの中に入れたほうがいいような気もする。でも、一刻も早く中身を見たいのも事実だ。
 そんな大事なものを何で忘れちゃうのか……我ながら、呆れて笑ってしまう。
 さて。
 二階の廊下も、一階のそれとおなじ顔をしている。その一番西が、F組の教室だ。
 あたしは、窓ガラスに映る自分の顔をちらりと見た。ここにも、別の世界がある。
 なんて空想を追い払って、スリッパをぺたぺた言わせながら廊下を歩いた。
 A、B、C、D、E……と、同じようでいて微妙に違う教室の前を横切っていく。そして、F組。
 眠い……。
 がくン、と膝から力が抜けた。そして、ぺたんとみっともなくお尻をついてしまう。
 奇妙な眩暈……それと、今まで経験したことのないような、気持ち悪さ。
「ふえ……?」
 冷たいリノリウムの床に両手をついたまま、思わず、声を出しちゃう。
 瞬間的に寝入ってしまい、世界がスキップする、それに似た感覚がある。でも、微妙に違う感じ。はっきりとした不快感が、体の中でぐるぐるする。
 のろのろと、あたしは顔をあげた。すごく頭が重くて、それだけで疲れてしまう。
 そして、ゆっくりと横を向いた。
 F組の教室の中。
 何かが、いる。
 最初に気付いたのは、匂いだった。今まで嗅いだことのある匂いと全然違う、何とも言えない悪臭が、むわっ、と顔を叩いたのだ。
 どう喩えたらいいんだろう。生臭いような、金臭いような、すっごくヘンな匂い。もしも魚が錆びたら、それとも金属が腐ったら、こんな匂いを出すかもしれない。
 教室の後側のドアが、少しだけ開いている。
 あたしは、どうにか立ち上がって、教室の中を覗いた。
 いた。
 すごく、でかいのが。
 海底のような青い闇に満たされた教室の中にいたのは、あえて言うなら、巨大なミミズだった。
 そのミミズもどきは、この部屋の中で、そうとう大暴れしたらしい。机や椅子は四方に飛び、決められた位置にとどまってるのは一つもなかった。窓ガラスも何枚か割られている。
 あたしは、妙な違和感に襲われた。
 でも、頭がぼおっとして、その違和感が何なのか、分からない。それに、目の前のミミズのお化けが、あたしの考えを、ますます混乱させる。
 ところで、さっき「あえて言うなら」なんて言ったのは、それが全然ミミズに似てなかったからだ。体の表面はごわごわしたなめし革みたいだったし、ミミズみたいな体節は無くて、そのかわり全身がシワに覆われてる。どっちかと言うと、掃除機のホースにちょっと似てるかもしれない。
 太さに比べると、あまり長くない。それでも、ぐるりと教室の中で一巻き半は体をくねらせてるけど。
 そして、それは生きていた。
 いや、何かの特撮のセットかもしれないし、そう考えるほうがまだしも現実的なんだろうけど、あたしは、それが、生きてる……少なくともついさっきまで生きていたように感じられたのだ。
 そんで、生きているとしても、それは瀕死だった。
 直径五〇センチはある胴体を、ときどきびゅくびゅく動かしているけど、どこか動きが力無い。その上、体のあちこちから、例の、錆びたような腐ったような匂いの体液を噴きこぼしてる。
 吐きそうになった。
 あわてて教室の扉に手を当て、体を支える。悪臭に満ちた静寂の中、がしゃ、とドアが無遠慮な音を立てた。
「誰だ」
 低い声で、あたしは誰何された。
 ――人がいる!
 それだけで、あたしは妙に心強くなった。目の前で死にかけてるこのミミズのお化けに比べれば、たとえ強盗だってまだマシだ。
 なんて考えが神様に通じたのだろうか、教室の中にいて、この怪物の傍らに立っていたのは、どう見ても何か凶悪な犯罪事件の犯人だった。
 黒づくめの服に、どういうつもりか丸いレンズの黒眼鏡。ごつい頭には髪の毛が一本も無くて、長い顔は、唇が薄いせいかちょっと爬虫類っぽい。はっきり言って、すっごく人相が悪かった。
 そりゃ、人相だけで人を判断するのはよくないことだ。でも、その男の人は、ご丁寧に右手に拳銃を握ってるのである。どう見ても凶悪系の犯罪者だ。
「何者だ、お前は……どうやって入ってきた?」
 黒眼鏡と、あと、もともとの人相のせいで、あんまり表情がよくわからないけど、この人は、あたしがここにいることにちょっと驚いてるらしい。
 でも、どう考えたってあたしの驚きのほうが上だ、何しろ、びっくりして口がきけないんだから。その上、心臓がばくばくして、喉はからから。情けないことに、膝がかくかく笑ってる。
 と、そのとき、そんなわけないんだけど、この人の目が、黒眼鏡の奥で、ぎら、と光ったような気がした。
「人間、か……」
 少し、この人の緊張が緩んだ感じ。
「あ……あなた、誰……?」
 よせばいーのに、あたしは名前を訊いてしまった。無論、この人は答えない。
 あたしは、沈黙に耐えかねて、目をそらした。
「きゃ……!!」
 とうとう、悲鳴がでた。短いけど、本気の悲鳴。
 視線の先、教室の床で、制服姿の男の子が、倒れてる。
 その頭のところで、何か黒いものが、じわじわとその領域を広げていた。
 血だ。
 血が、倒れてるこの男子の割れた頭から、今も流れつづけているのだ。それも、尋常な量じゃない。
 そして、倒れた体の方向から考えると、すごく不自然な方向を向いている顔に、あたしは、見覚えがあった。
 ちょっとびっくりしたような表情を浮かべ、目を開いたまま、ぴくりとも動かない顔……。
「ゆずるぎ、くん……」
 今まで、よくもったと思う。
 あたしの意識は、完全な暗黒に飲み込まれた。



「如月さん」
 名前を呼ばれ、あたしは、がばっと体を起こした。
 机に突っ伏して寝ていたのだ。
 目の前には、妙に爽やかな朝日に包まれた教室がある。
 特に、変わった点はないんだけど、なんだか、風景がよそよそしい。
「如月さんの席は、そこじゃないでしょお」
 あたしの傍らから、そんな声がかけられる。なんだ、種を明かせば簡単な話。
「せんせ、おはよーございます」
「おはよう」
 メガネをかけた顔に困ったようなを浮かべながら、担任の烏丸先生が返事をする。ほんわかした雰囲気のせいで、高校の物理教師というより、保育園の保母さんっぽい先生である。
「朝一番で、先生の家に、お母さんから連絡があったのよ」
 朝まで気付かんかったんかい、うちの母親は。
「そりは、ご迷惑をおかけしました」
「まあ、無事だったからよかったけど……なんで、学校にそんな格好で来てたのかな?」
「なんでって……」
 言いながら、あたしは自分の「そんな格好」を見直した。普段着の明るいイエローのトレーナーに、細身のジーンズ。それから、足にはスリッパ。
「忘れ物を取りに……」
 言いかけて、ざあっ、と覚めかけた頭から血の気が引いた。
 昨夜の記憶が、黒い煙みたいに、あたしの頭の中にぶわっと湧き起こる。
「あ、あの、先生」
 よっぽど切羽詰った顔をしてたんだろう。先生は、ちょっと身構えながら、あたしを不思議そうに見てる。
「あたしの他に、誰か、この教室にいませんでした?」
「なに? 如月さん、一人じゃなかったの?」
「えっと、そういうわけじゃないけど……」
 あたしは、周りを見回した。机と椅子はきちんと整頓され、窓ガラスは一枚も割れていない。それに、あんな奇妙な怪物が倒れていた跡もない。
 外から、朝練始めの号令が聞こえる。何てことはない、これからたくさんの生徒を飲み込もうとしてる、目を覚ましたばかりの学校の風景……。
「とにかく、そんな格好じゃなんだから、家に帰って着替えてらっしゃい。夜中に校舎に忍び込んだことは、先生がどうにかしたげるから」
「あ……ありがとう、ございます」
 お礼もそこそこ、あたしはぐるぐる回る頭に手を当てながら、教室を出た。
「おー、ユッキ♪ 寝惚けてそんなカッコで学校きたかア?」
 途中、陸上部の部室に向かうナナミと、玄関ですれ違った。
「ま、そんなとこ」
「ホント?」
「別に珍しくもないでしょ。ほれ、とっとと校庭でもどこでも走りに行きな」
 全てを自分の体質のせいにするあたしを、ちょっと怪訝そうに振り返りながら、ナナミが行ってしまう。
 なぜか、ため息なんかついて、あたしは下駄箱の中に入れておいた靴を取り出した。
 蓋を閉めかけて、机の中に入れっぱなしの、あれのことを思い出す。
(譲木くん……)
 下駄箱の前で立ち尽くす私服のあたしを不思議そうに眺めながら、朝の早い生徒たちが登校していく。
 その視線を背中に感じながら、あたしは、しばらく動くことができなかった。



「あら、如月さん」
「ユッキ、来たの? どーせ寝てるだけなのに」
 おべんとを食べ終え、机の位置をもとに戻してるブンちゃんとナナミが、教室に入ってきたあたしに声をかけてくれた。
「烏丸センセに義理立て」
 言い訳めいた口調で言うあたしの顔を、ブンちゃんが心配そうな顔でのぞきこむ。
「体の方は、大丈夫なの?」
「平気だって。そろそろ睡眠期、終わりだもん」
「そう、ならいいんだけど」
 言いながら、おっとりと笑いかける。
「そういう顔を男子にもほいほい見せちゃうから、勘違いヤローが跡を絶たないんだぞ」
 ナナミが、ブンちゃんの横から口を出す。
「そういう顔って?」
「むぼーびなんだよォ、ブンちゃんはさ。ま、ユッキも無防備さじゃ負けてないけどね」
「そうかしら?」
「同じクラスだった男子は全員、こいつの寝顔おがんでんだよ」
 へへへっ、とあまり上品でない感じで、ナナミが笑う。
「ふつーは、恋人かダンナでないと拝めないもんでしょ」
「……あのさあ」
 ナナミの際どい話題を無視するように、あたしは二人に話しかける。意に反して、かなり声が堅くなってた。
「なに?」
「譲木くん、来てる?」
 ナナミは、その猫目をきょとんと見開いた。ちくしょう、可愛いじゃないか。
「そう言えば、欠席みたいだけど……」
「なになになに、ウワサ、ほんとーだったの?」
 静かなブンちゃんの声に、ナナミの無遠慮なセリフがかぶさった。
「噂って?」
「だからあ、譲木とユッキが付き合ってるってウワサ♪」
「あら、そうだったの?」
 ブンちゃんが、無邪気に言う。
「ちがうー」
 あやうく既成事実にされそうになって、あたしは顔をしかめた。
「見当たらないから、訊いただけだよ」
「そもそもンなこと訊くこと自体、アヤしーじゃん」
 ナナミは小さな顔ににんまりとした笑みを浮かべた。
「付き合ってないなら、ユッキの片想いってことね。しかし、なんだってあんな暗いヤツを……」
「ちがうってゆーとるだろーが!」
 思わず、大声。教室に残ってる人たちの視線が痛い。
「照れるな照れるな」
「照れてなんかない! だいたい、なんでもかんでも色恋沙汰に結び付けるのは、ガキの証拠だぞ」
 ナナミは、子供だと言われることが一番こたえるらしい。相手のコンプレックスをつつくのは卑怯な手だけど、この際はしかたなかろう。女の勝負は非情なのだ。
 しかし、今日のナナミは手ごわかった。
「照れてないなら、なんで顔が赤い?」
「え?」
 言われて、つい頬に手を当ててしまう。
 これで、あたしの負けだ。ナナミがくすくすと笑ってる。
「そろそろ、先生がいらっしゃるわよ」
 審判者よろしく、ブンちゃんがじゃれあうあたしとナナミに声をかけた。
 ちぇっ。



 午後の、古文の授業の間、あたしは自分の教室を観察しつづけていた。
 どうせ、授業を聞いていても分からないから、コレはあたしの人生にとって何のロスにもならない。
 さて……いつもの教室だった。
 壁に貼ってある掲示物ひとつ、破られてはいないし、壊れたところをあわてて修理した様子もない。割れていたはずの窓ガラスもきちんとしている。
 と、あたしは、昨夜の違和感の正体に気が付いた。
 ガラスは、いつ割れたんだろ?
 あたしが昨夜、学校に入ろうとしたときには、割れてるガラスは一枚もなかった。無論、意識して確認したわけではないが、目的地である自分の教室を、外からうかがったことは憶えてる。窓ガラスに、異常はなかった。
 でも、中に入って教室にたどり着いたときには、ガラスが何枚も割られていた。
 となると、窓ガラスが割れたのは、あたしが校舎の中に入ってから、教室に着くまでの十数分の間ということになる。ガラスだけでなく、教室であのミミズのお化けが暴れまわったのも、その時間帯のはずだ。
 なのに、あたしは何の物音も聞かなかった。
 昼間ではない。夜の、いやになるくらい静かな校舎なのだ。しかも、周りの道路には、車の交通はほとんどナシ。音を聞かないわけがない。
 そもそも、あのごつい男の人は拳銃を持ってた。多分、あれでミミズお化けと戦っていたのだろう。なのに、銃声ひとつ聞こえなかったのだ。
 ということは……どういうこと?
 一番当たり前の答えは、アレが、あたしの夢だった、というヤツだ。
 昨夜のあたしは睡眠期にあって、どこで眠ってもおかしくないような状態だった。教室に入ったところで居眠りをして、そのまま妙ちきりんな悪夢を見てしまったとしても、おかしくはない。と言うか、そう考えないほうがおかしい。
 なあんだ。
 あたしったらねぼすけさんね♪
 何でもかんでも睡眠障害のせいにするのは好きじゃないけど、今回は、それで納得しておいたほうがよさそうだ。
 てなわけで、あたしは残りの時間を睡眠時間として有意義に活用した。睡眠期はおわりつつあるけど、まだ完全に覚醒期に入ったわけじゃないのだ。
 で、気が付くと、あたしは家に帰っていた。
 学校から家までの断続的な記憶が残ってる。ブンちゃんが、足取りのおぼつかないあたしを、手を引くようにして家まで送ってくれたのだ。うー、みっともない。
 無論、あれはまだ机の中。
 でも、さすがに今夜は取りに行く気になれなかった。



 ない。
 なくなってる。
 机の奥に突っ込んで隠していたはずのあれが、無くなっていた。
 うわわわわわわ、と声をあげたくなるのを、必死でこらえる。
 あれは、机の中に入れっぱの教科書の下に置いておいたはずだ。そして、教科書なんかはそのままだ。
 偶然、あれだけが床に落ちるということは考えにくい。
(盗られた?)
 一瞬、ナナミの顔が思い浮かんだ。陸上部の練習の後、ごそごそとあたしの机をあさるナナミ……。
 あたしは、その映像を打ち消した。あたしはナナミを信用している。
 あれを手に入れたら、ぜったいにナナミはそれをネタにあたしをからかう。しかも、向こう三週間は堅い。
 なのに、今日一日、ナナミはおとなしいもんだった。主な話題は、駅前の新しいケーキ屋のことと、ブンちゃん属する料理研究会が焼いたタルトを試食したこと、あとダイエットしながら食べられるというふれこみの新発売のお菓子のこと。今日のこいつは食欲魔人だ。
 じゃあ、誰が?
 この件の関係者といえば、当の譲木くんくらいだ。
 でも、今日も、譲木くんは休んでる。先生の話だと、今日やっと、保護者の人から交通事故にあったという報せが来たそうだ。
(交通事故、ねえ……)
 いろいろと釈然としないものを感じつつも、あたしは、他愛もない女子高生ライフに埋没していった。
 譲木くんは、このあと一週間、学校に来なかった。

第二章へ

目次へ