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「……アンタ、何これ? アタシをバカにしてんの?」
袋から取り出した衣装を一目見ただけで、七瀬の声が一気に冷気を帯びだした。
心の底から見下げ果てた目で、俺を見やってきたりする。
正直、逃げ出したい気分だ。
だが男のロマンのためにも、俺は勇気を総動員して、朗らかな笑顔で陽気に説明を始めた。
「いやいやいや、なかなか可愛いだろ? この黄色い帽子といいチェックのスカートといい、完璧なまでの幼稚園児ルックだ。でもコレでちゃんと大人用なんだぞ? もちろん、やっぱり黄色いポーチだって忘れてないからな。ホラホラ」
「…………」
残暑厳しい折、昼下がりのワンルーム。電気代が恐いので28度に設定してあるはずなのに、俺の背中を冷たい汗が伝い落ちていく。
「…………ねえ、隆一。ひとつ聞いていい?」
「な、何かな?」
「本気でコレを、アタシに着せたいわけ?」
俺には幾つかの選択肢があった。「や、やだなあ、冗談に決まってるじゃないですか、あははははー」と笑って誤魔化すのも、その一つだっただろう。
だがしかし!
それでは敗北だ。全面降伏だ。無条件講和条約の締結だ。そんな物を受け入れられるか?
否、断じて否である。
漢ならば、不退転の決意を見せるべき時がある!
そして、今が正にその時なのだ!!!
「もちろんだとも!」
七瀬の右ひざが、綺麗にみぞおちに入ってきた。
それをスローモーションのように見つめていた俺は、がふっと無様な音を立てて無理やり空気を吐き出させられた。
その頃にはまず俺の両膝が、次いで肩と額とがほぼ同時に床に落ちていった。
「ぐふっ、げはっ、はっ、ひゅーっ、げははっ、ぐふぅぅっ……ひゅ、ぐほっ、ほっ、えほぉぉっ!」
横隔膜をやられたか、呼吸するだけで火を吐くほどに苦しい。咳き込んで空気を吐き出して、息苦しくて空気を吸おうとしたら、みぞおちが焼けそうで、反射的に咳き込んで、いよいよ酸欠になっていく。
「何か言いたいことはある?」
「ぐふふぇっ」
殺虫剤を喰らった虫のように痙攣する俺の側頭部に、七瀬はげしっと足を落としてくれた。
涙目どころか完全に涙を零しながら、それでも少しだけ身体の落ち着いてきた俺は、そのままの体勢でどうにか目線だけ上向かせることに成功した。
偉そうにふんぞり返り、腕組みまでした七瀬が、極めつけに冷ややかな、慈愛の対極にあるような目で俺を見下ろしていた。
これがスカートならパンツが見えたのに、どうしてコイツはGパンなんて穿いてやがるんだ。
それが正直な言いたいことだったが、そのまま言うと怒られるのは分かっていたので、さすがに控えた。
「俺は、オマエを這いつくばらせたいと思ったことは何度もあるが、その逆は一度も――イタタタタタタタタッ! ごめんなさいごめんなさいっ、冗談です!!」
メリッと、頭蓋骨の軋む音が響いた。俺の頭が、七瀬の足の裏とフローリングの床との間で悲鳴を上げる。
「ちょっ、タンマタンマタンマ! マジ待って、お願いーーーーっ!」
しかし要望とは逆に、視界の隅で、床についた方の七瀬の脚が上がっていった。それに比例して頭にかかる過重がゆっくりと増えて行く。腹の痛みと頭の痛みで、視界が歪み出す。
ビクンと身体が勝手に痙攣して、それがやたらと恐怖を煽ってくれる。このままでは、マジに死ぬ。
それなのに七瀬のヤツは、涼しい顔で言い放ちやがった。
「ちょっと、動かないでよ。危ないでしょ」
「だったら降りろーーーーーー!!!!!!」
「もう、しょうがないわねぇ」
俺の魂からの絶叫に、七瀬は不承不承といった感じでようやくオレの頭から脚を下ろした。最後に踵を捻るようにしたのが、つくづく七瀬らしいと、俺は痛みに意識をかすれさせながら思った。
とにかく、やっと解放された俺が頭を起こそうとしたら、床から離す時にペリペリと音が立って、さらにゾッとさせられてしまった。おまけに、何か首が真っ直ぐにならない。上からの過重に抵抗し続けていたせいで、筋が変になったのだろうか。
「まったく、どこまで恐ろしい女なんだ、オマエは」
「私は、20を超えた恋人に幼稚園児の格好をさせようとする、アンタの頭の中の方が恐ろしいわよ」
床にしゃがみ込んで首をさする俺に、立ったままの七瀬は呆れ果てたと言わんばかりだ。
「いいじゃないか。幼稚園児に、20を超えた恋人にするようなことをする――」
視界いっぱいに、七瀬の膝が広がってきた。またもスローモーションで。どうしてこういう時、動きはスローに見えるのに、自分の身体はもっとスローにしか動かないのだろうか。
めしゃっと、何かそういう音も、スロー再生で聞こえた気がした。
「目が、目が〜〜〜ぁっ!?」
眼球が陥没したような痛みに、スローの呪縛から解放された俺はゴロゴロと床をのた打ち回った。
「だっ……から! どうしてオマエはすぐそうやって膝を出すんだ!?」
「あら、肘の方がお好み?」
「そういうことを言いたいんじゃない!」
ガバッと勢いよく跳ね起きた俺は、ズビシっと七瀬を指差した。
「いいか、間違えるな! 俺は犯罪者になりたいとは一言も言っていない。ただただ、オマエに幼稚園児の格好をさせたいだけなんだ!」
「そんな馬鹿らしいこと、大声で宣言しないでよ!」
「お願いですから、幼稚園児の格好をしてください」
「お断りよ」
深々と丁寧に頭を下げたのに、アッサリ却下されてしまう。
「どっちにしても駄目なんじゃないか!」
「当たり前でしょ、馬鹿」
俺の必死の抗議も、無情な七瀬の防壁を崩すことができない。
俺は握り締めた拳を、プルプルと震わせた。
「オマエに……オマエに分かるか? その衣装を手に入れた時の俺の興奮が。それをオマエに着せて、どんなプレイをしてやろうかと心を弾ませた俺の希望が!」
「分かるわけないでしょ。ていうか私は、どういう経路で手に入れたのか、そっちの方が気になって仕方ないわよ」
そんな邪な意見は、当然のごとく聞こえないフリをしてやった。
「俺は、俺は昨日から眠れないほどだったんだぞ? 今日は想像の中ではなく、本物のオマエに幼稚園児ルックを着せられるんだって」
「いいじゃない、今日も想像で済ませておけば」
あまりな七瀬の物言いに、俺はキッと睨みつけた。
「な、なによ。何か文句があるの?」
いつになく真剣な俺の瞳に、七瀬がわずかに気圧されていた。俺は七瀬を睨み据えたまま、床に放り出された衣装を手に取った。
「そんな顔したって、着ないわよ?」
「かまわん」
慎重に体重を乗せかえる七瀬に、俺はぶっきらぼうに答えていた。そうして衣装を持ったまま、七瀬の脇を通り抜けようとした。玄関の方へ向かって。
「ちょっ、どこへ行くのよ?」
「トイレだ」
トイレは玄関の脇にあるから間違っていない。
「トイレって……その手に持ってるのはなんなのよ?」
「決まってるだろう。この衣装に顔を埋めてオナニーするんだよ」
七瀬を振り返った俺は、男らしく堂々と答えていた。俺の顔には、いっそ爽やかな笑顔さえ浮かんでいたかもしれない。
しかし。
「恋人に向かってそんな馬鹿なこと、誇らしげに言ってんじゃないわよ!!!」
七瀬の脚が動いた、ような気がした。
実際に動いたのか疑わしいが、しかし俺のアゴを何かがかすめていき、「あれ?」と思った時には、どうやら俺は気を失ってしまっていた。
「う……ぐ……むぅぅ……」
目が覚めた俺は、どうやら床にうつ伏せで寝転がっていたようだ。おかしいなと思いながら手を付いて身体を起こそうとすると、クラッときた。
「なんだ。やっと起きたの?」
ぶっきらぼうな物言いに、目眩のする頭を苦労してもたげてみれば、ベッドの上に七瀬がうずくまっていた。
しかも、すっぽりとタオルケットに包まって。
「……オマエ、何やってんだ?」
多少、何か胸がムカムカする気がする。立ち上がるのも億劫で、俺はその場にしゃがみ込んで尋ねた。
「寒いのよ、この部屋」
「それはまったく同感だ」
打ち所が悪かったのか、本気で悪寒が走ってきた。見れば腕には鳥肌まで立っている。大の男にこれほどのダメージを与える蹴りを放つとは、つくづく恐ろしい女である。しかし文句を言うと、また膝が飛んできかねない。
俺はのそのそと、ベッドの方へ這い進もうとした。
「ちょっと、こっち来ないでよ!」
「はあ? 俺はオマエのせいでダメージ溜まってんだ。ちょっと横にならせろ」
「さっきまで床で横になってたじゃないの」
「……オマエはどこまでヒドイ女なんだ、まったく」
四つん這いだった俺は、よっこらせと声を上げて膝立ちになった。そのままいざり寄ろうとすると、またも七瀬が大声を上げた。
「来るなって言ってるでしょ!」
「ぐはっ!?」
怒声と共に枕が飛んできた。抜く手も見せない超高速投枕に、俺はまたも撃沈されかかる。
「いや、だからオマエ……」
「いいから下がりなさい、部屋の端まで!」
ただならぬ剣幕に、俺はさっさと抵抗を諦めた。こういう時は、大人しく従うに限る。そうでないと、もっと色んな、危険度の高いモノまでが飛んでくるからだ。
俺は言われるままに、部屋の隅へとバックしていった。
「そこで正座」
「いや、正座て……」
「サッサとする!」
コイツは何をカリカリしているんだろう。どう考えても、怒るのは蹴られて倒れ伏していた俺の方なのに。生理が来るにはまだ早いはずなのだが……。
しかしもちろん、俺は七瀬の指示に従った。下手に抗議すると、もっと怖い目に遭わされるからだ。
「いい? 絶対にそこを動いちゃ駄目だからね」
俺に念を押し、ちゃんと頷かせた上で、ようやく七瀬はベッドから降り立った。何故かタオルケットに包まったままで。
「絶対に、そこを動いちゃ駄目よ」
「何なんだよ、いった……いっ!?」
一呼吸置いた七瀬は唇を噛むと、すとんとタオルケットを脱ぎ下ろした。
そこに、そこにはっ……それはっ!!!
ああっ、俺は、夢を見ているのだろうか。
七瀬が、あの七瀬が、俺の用意した幼稚園児ルックを身に付けている!
黄色い帽子も、少し暗いめな水色のスモッグも、赤と黒のチェックのスカートも、白いニーソックスも、おまけに室内だというのにエナメル靴も!
俺は今初めて、神の存在を感じている!!
「な、な、な……」
少し怒ったように目線を伏せ気味にした七瀬が、上目遣いに睨む形で俺を見ている。
その顔はもう真っ赤になっていて、湧き上がる感情を堪えるように噛み締めた唇が、かすかに震えて見えた。
ふんとそっぽを向くように、七瀬が目線を逸らせた。黄色い帽子を被った頭が揺れ、背中にまで届く七瀬の艶やかな黒髪がざわめいた。
七瀬は横を向きながらも、スカートの方を気にしつづけていた。
というのも、上着は大きめだったので、袖に指先が隠れるくらいだし、胸もそんなに目立たないのだが、スカートの方が若干短めなのだ。
これは一重に七瀬の脚が長いせいであって、俺が短いスカートを用意したせいでは断じてないのだが、とにかく、ともするとスカートの裾からパンツが見えそうなのだ。しかも、七瀬のほっそりとしなやかな足の大部分は真っ白なニーソックスに包まれているわけで。
スカートとニーソに挟まれた素肌が、イヤでも際立つ。
「な、七瀬たん!」
叫んだ俺の発揮した跳躍力は、見事という他なかったはずだ。
バンッと両手を床に叩き付け、その反動と同時に膝を伸ばしていって床を蹴る。
そうして腕と脚、両方の力を十二分に活かし、かつ、ほぼ正座の姿勢を崩さないまま跳躍し、七瀬との距離を0にするべく宙を舞っていた。
「誰が七瀬たんよ!」
七瀬はまるで予期していたかのように、たじろぎもせず、狭いワンルームの中で、華麗に脚で孤を描いていた。
七瀬の脚が、俺の首を刈り取った。横からの衝撃で無理やり方向転換を強いられた俺は、バランスを崩してあえなく墜落させらていた。
「ぐぎゃっ!?」
受身も取れないまま顔面から落ち、したたかに鼻を強打してしまう。クレオパトラを凌駕する俺の鼻がへこまなかったのは、僥倖と言う以外の何物でもない。
それでもどうにか起き上がろうと手を付いたところへ、正にその鼻の間近にダンっと七瀬の脚が振り落とされてきた。
「動いちゃ駄目って、言ったわよね?」
「……あの、パンツ見えてるんですけど……」
「アンタの馬鹿を治すためなら、パンツの一つや二つ惜しくはないわ」
低い声で呟いた七瀬の脚が、ゆっくりと上がっていく。おかげで、パンツがいよいよ露わになる。ありがたいことに、七瀬はパンツまで、俺の用意したくまさんプリントのパンツに穿き替えてくれていた。
眼福眼福と、観音様を拝むように手を合わそうとしたところで、ゾクリと背筋を悪寒が駆け抜けていった。
俺は本能的な恐怖に駆られるまま、身体を転がして逃げた。
半拍も置かないうちに、ズダンっと七瀬の踵が、俺の顔のあったところを踏みしだいていた。着地点から、摩擦と衝撃による煙さえ吹かせそうな、強烈な一撃だった。
部屋の隅まで逃げていた俺は、ゴクリと唾を飲み込んでいた。
「まったく、こんな格好させて、何が楽しいんだか。だいたい、何なのよ、その七瀬たんってのは。気持ち悪い」
七瀬は自分の服装を見下ろしてから、俺のことまで斜めに見下ろしてくれた。
「わ、分かった。じゃあせめて、七瀬ちゃんと呼ばせてくれ」
いつでも逃げられるように腰を引きながら提案する。七瀬はジッと俺を睨み据えたまま、やがて呆れたように首を振りつつ盛大なため息を吐いた。しかしこれは、了承と踏んで問題ない。
そこで俺は、もう一歩踏み込むことにした。
「え〜、それじゃあ七瀬ちゃん、ちょっとお願いがあるんだけれども」
「何よ?」
「俺のことは、“お兄ちゃん”と呼んでくれたまへ」
七瀬は、風よりも速く動いていた。事実、七瀬が俺の目の前に立ってから、風はやって来たのだから。
頬を撫でる風に死の恐怖を覚え、俺はとっさに両腕を上げて頭をガードした。
しかし七瀬は、何故か俺に背中を向けていた。
スカートが翻り、くまさんが俺に微笑みかけてきた。
それが、身体を沈み込ませながら回転しているのだと理解したのは、衝撃にのた打ち回ってからだった。
それは、そう。グサっと包丁を突き刺された時と同じような激痛というか、熱さだった。回転力を加えた七瀬の肘が、無防備な脇腹に突き刺さってきたのだ。
「がひゅぅっ!?」
俺の身体は、くの字を書いたまま飛んでいた。そのまままたも、受身も取れずに床に落ちてしまう。弾みで、腕や額に摩擦熱による軽い火傷を負ったようだが、そんなのはもう、全然痛いうちに入らなかった。
「ぐぬっ、ぬ、ぬぬぬぬぬぅぅぅぅっ……!」
脇腹から燃え広がるような痛みを少しでも抑え込もうと、俺は両手で脇腹を押さえ、床に額を擦りつけて唸っていた。
「まったくもう、しょうがないなぁ」
妙に甘い、子供っぽい口調で七瀬が言った。そこに俺が危険信号を察知するより速く、七瀬は俺が押さえている手の上から、爪先で脇腹を蹴り押し、俺を仰向けにさせた。
「ぐはっ、はっ、はあぁっ」
身体は、痛みのせいで丸まろうとしていたが、ここは俺の投げやりさが勝ったようだ。俺はただ脇腹を軽く押さえたまま、グッタリと身体を投げ出していた。
そんな俺を、七瀬が無邪気な笑顔を浮かべて見下ろしてくれていた。しかし気分的には、脇腹に銃弾を喰らって倒れたガンマンが、さらに敵からトドメを刺されるべく銃口を向けられているようなモノだった。痛みと恐怖で、全身が汗だくだ。
それでも、それだからこそ、俺は七瀬に軽口を返していた。
「な、七瀬……やっぱりオマエには、くまさんパンツが最高に……ぐぶびゅうっ!?」
表情を掻き消した七瀬が、俺のノドに踵を叩き落してくれていた。
ビクンッと身体が跳ね上がったかと思うと、後はもう電気が切れたみたいに動かなくなってしまう。
それでも俺は、残された生命力を総動員して、どうにか右の拳を握り、ただ親指だけを突き立てた。
「ぁ……ぅ、ぁ……」
「今のは踵よ、踵」
七瀬は呆れたように言うと、クルリと俺に背を向けて、ベッドの端にポスっと腰を下ろした。
ひとまず危険は去ったようで、俺は苦痛に顔を歪めながらもどうにか起き上がった。ノドを押さえ、脇腹を庇いつつ、痛みに収縮しきった筋肉を伸ばす。
「あ゛う゛あ、あ〜……あ、あああ〜〜……クソ。マジで痛かった」
「アンタが馬鹿なこと言うからでしょ」
「アンタじゃない。お兄ちゃんだ、お兄ちゃん」
その時、俺は自分の過ちに気付いていなかった。ストレッチをしてるうちに、つい七瀬に接近しすぎていたのだ。
「あうぐぇごばはようっ!?」
解説しても分かるまい、急所を爪先で蹴り上げられた痛みというものは!
俺は無様にも股間を両手で押さえたまま、前のめりに倒れていってしまう。そのアゴを、七瀬の手がハッシと掴み、俺が崩れ落ちるのを防いでしまう。恐るべき握力だ。
「どうしてアンタって、同じ間違いを何度も何度も繰り返すのかしら?」
「どうしてかなあ? お兄ちゃん、自分でも――イデデデデデデデデっ! アオあ、アオあわえふーーー!?」
嫌な音を立ててアゴが軋みを立てた。
「ま、待へ、落ひ着へ! ただひょっと、おひぃはゃんっへ、呼ぶはへひゃないは!」
「私は、そこまで落ちたくはないわ」
みしっと、さらにアゴが大きく軋んだ。
「わ、分はっは! 嫌なはひい、嫌なは!」
七瀬が警戒を解かないまま俺を睨みつける。俺はアゴを掴まれたままだったが、壊れた人形のようにコクコクと何度も頷いた。七瀬はふんと鼻を鳴らして、ようやく俺を解放した。
「まったく……どれだけ馬鹿なことが詰まってるのよ、アンタの頭には」
「自分でも数えたことがないから知らん」
「今度のゴミの日に、まとめて捨てときなさいよ」
「それこそ、馬鹿な、だ。オマエは馬鹿なことの重要さを微塵も分かっていない。アホくさいことを大真面目にやる。それが人生というものだ!」
「こんなしょうもないところで、人生なんて語んないでよ」
「今語らずして、いつ語れというんだ!」
「豚にエサやってる時にでも語ればいいでしょ」
な、なんて女だ。普通は逆ギレチックに無意味に自信タップリに堂々と叫べば、何となく道理を引っ込められるというのに。
これだから口の達者な女は困る。
「だいたい、花も恥じらう女子大生が、何だって幼稚園児の格好をしなきゃいけないのよ」
「なんだ。ブルマとかスク水の方が良かったか? 安心しろ、すぐ手配してやる」
「アンタいっぺん本気で殺すわよ?」
「ロープロープロープ」
治まりかけていた殺気が甦り、俺は慌てて壁に身を張り付かせた。そんな俺に、七瀬はさらにシッシッと犬を追い払うように手を振った。
「そのまま出てきなさいよ。着替えるから」
「はあ?」
「もう十分でしょ? 望みどおり着てやったんだから、感謝しなさいよね、ホントに」
そういって七瀬は、ほら早くと玄関へアゴをしゃくる。
「ちょ、ちょ〜〜っと待て。もう脱ぐのか? それは早い、早すぎるよ、スレッガーさん!」
「はいはい、いいから出て行きなさい」
「待て待て待て、もう3秒だけ待ってくれ!」
俺はクローゼットを開けると、その下に転がしていたデジカメを拾い上げた。
そのまま七瀬を振り向き、シャッターを切る。
「ちょっ、何を勝手に写真なんて撮ってんのよ!?」
「この映像を記録に残さないなんて、人類の損失だよ、七瀬ちゃん」
「そんな人類、滅べばいいのよ!」
獲物を狙うチーターもかくやとばかりに、風を斬って七瀬が襲い掛かってくる。俺はカメラを死守せんと、狭い室内を必死に逃げ回った。
「わ、分かった! 待て待て待て! 落ち着け!!」
あっという間にベッドの上に追い詰められた俺は、それでもカメラを抱え込み、空いた手を精一杯に七瀬に突き出して牽制をした。七瀬は低く身構え、今にも飛びかかろうとしている。猫科の動物のように、喉からは唸り声さえ響かせて。
「分かった、データは消去する! だから落ち着け!」
「……じゃあ、今すぐ消しなさい」
「いや、だからそう急くな。消す、必ず消すから。いや、七瀬が消していいから、自分で完全に。だからちょっと待って。ね、お願い」
俺の必死の嘆願に、七瀬はほんの少しだけ警戒を解いて距離を開けた。ただし、その距離は七瀬なら瞬きする間もなく0にすることができる。
俺は緊張に破裂しそうな心臓を押さえつつ、慎重に言葉を選んだ。
「データは必ず消させるから、もうちょっと撮らせてくんない?」
「お断りよ」
「い、いいじゃないか、消すんだぞ?」
「消すんだったら、撮らなけりゃいいでしょ」
「馬鹿、違うんだよ。ファインダーを通すことで、俺の心のフィルムに焼き付けられるの」
ここに、と知らしめるべく心臓を叩いた。さすがは俺と言うべきか、もうとっくに鼓動は平常を取り戻していた。
七瀬は何やら思案顔である。ここは、一気に畳み掛けておくべきだろう。
「いいだろ? な?」
「もうちょっとって、あと何枚取るつもりなのよ?」
「いや、デジカメで枚数制限されるのは、けっこうキツイんだが……」
「じゃあ、消すのはいつよ? 撮り終わったら、すぐに消させるんでしょうね?」
勘のいい女だ、と内心で舌打ちする。撮り終えた後で聞かれたなら、100年後、とか言うつもりだったのに。
「もちろん、すぐに消させる」
「……何か今、答えるのに間がなかった?」
「ないない全然」
言いがかりは止めてくれと、俺はわざわざ顔をしかめて見せた。七瀬は腕を組むと、ふんと鼻を鳴らした。
「約束破ったら、承知しないからね。あ、もちろん、そのデータのコピーを取るのも厳禁だから」
「分かった分かった。ことが済んだらそのまますぐ消させてやるから。な?」
「……ホントにもう、しょうがないわね。今日だけ特別よ、今日だけ」
ため息を吐いた七瀬は顔を上げると、ポーズでも取るみたいに左手を腰にやり、左足を軽く後ろにずらした。そうして、早く済ませてしまいなさいと俺を促す。
「いよぅっし! さすが七瀬ちゃん、最高!」
俺はベッドから飛び降りると、ベストな距離が取れるようにやはり部屋の端へと移動した。七瀬が向き直り、立ちポーズを決めてくれる。俺はその姿を記録するため、立て続けにシャッターを切った。
「いいよー、七瀬ちゃん、最高! すっごいキュート!」
「はいはい」
シャッターを切りつつ、七瀬をベダ誉めする。軽く受け流すように言いながらも、七瀬も実はまんざらではないのだろう。瞳にも言葉にも、刺も冷気も感じられない。
「じゃあ、ちょっとポーズも変えてこっか。ちょい気持ち半身になって……そうそう、いいよー」
「何かホント、入ってるわねー、アンタも」
「そりゃあ、やるからにはトコトン楽しまないとな」
照れか苦笑か、はたまた七瀬もその気になりつつあるのか、とにかく口元をほころばせ始めた七瀬に、俺は嘘偽りのない言葉を投げつつシャッターを押し続ける。
「もうちょい横向いて……そう、それで目線ちょうだい」
「……」
「ああ、うん。そう。今のもっぺん、そうそうそう、じゃあそこで髪を梳き上げて耳を見せて……」
「ぷっ、な〜に言ってんのよ、ホントに」
七瀬が堪らず吹き出していた。それでも指示どおりに髪を梳き上げると、「こうして欲しかったんでしょ?」とばかりに、高慢とも取れるような笑みを浮かべる。
幼稚園児ルックとは不釣合いも甚だしい女の微笑は、しかし異様なくらいその衣装に似合ってもいた。
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