ふらっと・はーれむ



第1話



 ある日の夕方、肥田篤は、自室の万年床の上で至福の時を過ごしていた。
「あはははははっ、にんじゃさん、ハダカになっちゃってる〜」
 篤の、あぐらをかいた太い脚にすっぽりおさまるような小さな体が、テレビ画面を観ながら、ぷにぷにした全身を震わせて笑っている。
 彼女は、篤が住むアパートの管理人の娘である。名前は、鮎原小春。篤の記憶が正しければ、つい最近10歳になったばかりのはずだ。ちまちまとした可愛らしい口元と二重瞼の大きな瞳、そして、赤いリボンで飾られた栗色のストレートヘアが、この年齢の少女の不思議な魅力を際立たせている。
 篤が小春と観ているのは、篤が所有するアニメDVDである。月刊誌に掲載されたギャグマンガをアニメ化した他愛もない作品なのだ。だが、この地域では地上波で放送していなかったこともあり、小春は、ことあるごとに篤の部屋に上がり込み、このDVDを観たがるのだ。
 篤としても、アニメDVDがきっかけとは言え、小春のような美少女に懐かれて悪い気分がするはずもない。いや、むしろ最近では、小春が部屋に来るのを待ち焦がれてしまうようになっている。
 篤は小春を性愛の対象として見てしまっている自分を自覚していた。
 現に今も、小春のミルクとリンスの混じったような体臭を感じながら、その陰茎をすっかり勃起させてしまっている。
 小学生のころからでっぷりと肥満し、しかも口下手だった篤は、昔から同年代の女の子が苦手だった。せっかく就職した会社を、陰湿ないじめに耐え兼ねて2年でやめてしまった今も、その傾向はまだ続いている。
 だが、篤は、子供は好きだが、子供だけが好きな訳ではない。
 たとえ小春が成長しても――小春ならさぞ美人に成長するだろうと篤は思うのだが――自分は彼女を愛し続けることができる。そう、篤は考えている。
 もちろん、ここで言う“愛する”とは、“性欲の対象とする”ということと同義である。
(うはあ……小春ちゃんのお尻が、ボクのチンチンに当たってる……)
 赤いスカートに包まれたいたいけなヒップを、何枚かの布越しに感じながら、篤は、このまま思い切り小春を抱き締めたい気持ちをどうにか抑えていた。
 ここで性急な行動に出て嫌われては、元も子もない。それに、篤は、この年頃の少女がその手のフィクションのように簡単に快楽を感じるはずがないということくらいは知っていた。
(でも、もし……もし、小春ちゃんが気持ちいいと思うんだったら……)
 それなら、篤は何のためらいもなく小春と体を重ねるだろう。
 幼い小春の体を調教し、その性感を開発することができたら――と、篤の妄想は次第に危険なものになっていく。
 小春は、今、画面に見入りながら、その小さな口でアイスキャンディーをしゃぶっていた。もちろん、篤が邪まな目的で与えたものだ。
 ピンク色の舌がアイスを舐め、柔らかそうな唇がその表面をなぞっている。
 それを、すぐ後ろから覗き込みながら、篤は、脳の中枢が痺れるほどの興奮を感じていた。
 もし、篤に人並みの度胸があったら、その場で小春を押し倒していたかもしれない。
 しかし――
「こんにちはー。小春来てますかー?」
 そんな声に、どんどんという無遠慮なノックの音が響いた。
「あっ、おねーちゃんだ」
 小春は、残念そうな顔で言った。
「もしもーし。いらっしゃらないんですかー?」
 どんどんどんどん、とノックの音が更に響く。
「い、いるよ。ちょっと待ってて」
 篤が、そう声をかけてから、名残惜しげに小春から体を離し、立ち上がる。
 ドアを開けると、ブレザー姿のショートカットの少女が、そこに立っていた。
 小春の姉、鮎原真夏である。
 さらさらの黒髪に、しなやかそうな肢体。黒目がちな瞳は少しきつめだ。ただ、ボーイッシュを言い切ってしまうには、まつげが長く、プロポーションも発達している。この春から高校生という年齢にしては、胸は大きな方だろう。
「や、やあ」
 篤は、ぎこちなく真夏に声をかけた。
「どーも。小春、来てますよね」
「うん。ちょっと、勉強を見てあげてたんだけど」
「そうですか」
 つゆほども信用していないという目付きで篤を見てから、真夏は、部屋の中に視線を転じた。
「小春、帰るわよ。お母さん心配させちゃだめでしょ」
「う、うん……でも、まだアニメ終わってないし……」
「勉強じゃなかったんですか?」
 じろ、と真夏が篤の顔をにらむ。
「い、いや、だからその、ちょっと息抜きにね……」
「そーですか」
 真夏は、小春に向き直った。
「じゃあ、続きは後で観せてもらうことにしなさい。夕飯の準備、手伝ってもらうわよ」
「はーい」
 小春は、未練そうに画面を見てから、ぴょこんと立ち上がった。
「じゃあ、こんど続き見せてね、お兄ちゃん」
「ああ、もちろん」
 片足でけんけんしながら靴を履く小春に、篤が返事をする。
「またねぇ」
「おじゃましました」
 ばたん、とやや乱暴に、真夏はドアを閉めた。
「やれやれ……真夏ちゃん、昔はあんなじゃなかったのになあ……」
 篤は、口の中でもごもごとつぶやいた。



「篤さん……昔はあんなじゃなかったのに……」
 自宅の台所で夕飯の準備を手伝いながら、真夏は言った。
「え? 何の話?」
 そう言って、小春と真夏の母、鮎原千秋が、娘の方を振り向く。
 柔らかくウェーブした栗色の髪に、整った目鼻立ち。大きな瞳は、娘二人に遺伝したようだ。何よりも目を引くのは、エプロンの下で大きく服を膨らませている豊かな胸元である。
「肥田さんよ。小春ったら、あの人のところに入り浸りなんだもん。心配になっちゃう」
 真夏は、唇を尖らせながら言った。
 当の小春は、隣のリビングでテーブルの上に三人分の食器を並べている。小春と真夏の父――つまり、千秋の夫である時夫は、関西の方に単身赴任中なのだ。
「確かにねえ……肥田君のご迷惑になってないといいんだけど」
 二児の母親とは思えないような若々しい顔をかすかに曇らせ、千秋は言った。
「そんなんじゃないったら。あたしは、肥田さんが小春に何かヘンなことしないか、それを心配してるの!」
「やだ、真夏ちゃんたら」
 千秋は、ころころと笑った。
「小春ちゃんはまだ子供よ。そんなことあるわけないでしょ」
「お母さん、のんきすぎるよ」
 真夏は、呆れたような顔をする。
「テレビや新聞でいろいろやってるじゃない」
「まあ、真夏ちゃん。人様を犯罪者みたいに言うのはよくないわよ」
「だって……あの人の、あたしや小春を見る目、ちょっと異常だよ」
 真夏は、この年代の少女らしい潔癖さで、そう断言した。
「それに、仕事もやめちゃって、一日中ぶらぶらしてるだけだし……」
「今、新しいお仕事を見つけるのは大変なのよ」
 千秋は、そう言って小さくため息をついた。
「それに、肥田君は小さいころから苦労してるから……。真夏だって知ってるでしょう?」
「うん……」
 肥田篤は、ちょうど十年前に、両親を揃って亡くしている。
 小さいながらも事業をやっていた篤の父親は、このすぐ近くの用水路で水死しているのが発見された。事故か、自殺か、それとも何らかの事件に巻き込まれたのか、まだ結論は出ていない。
 そして、その父親の死から半年ほど経ってから、篤の母親も、首を吊って自殺したのだ。
 天涯孤独の身の上になった、当時12歳の篤の面倒を見たのが、篤の父親の親友であった鮎原時夫だった。専門学校を卒業した篤に、前の職場を紹介したのも時夫だ。
 もともと、肥田と鮎原の家は、家族ぐるみの付き合いをしていた。篤の両親が亡くなる前、真夏は、よく篤に遊んでもらったことを覚えている。
 そのころの篤は、肥満児ではあったが、おとなしくやさしい年上の男の子だった。
 それが、今は――
「おかーさん、おねーちゃん! お皿ならべ終わったよー!」
 元気のいい小春の声が、真夏の物思いを中断させた。



「あ〜、お腹すいたなあ〜」
 篤は、万年床に横たわり、天井を見上げながら呟いた。
 先程、小春が食べ残したアイスキャンディーを舐めしゃぶり、小春のことを思い出しながらオナニーまでしたのだが、食欲も性欲も中途半端にしか満たされていない。
 貯金は尽きかけており、しかも家賃まで滞納気味だ。管理人である千秋に甘え続けるのにも限度があるだろう。
 金が、必要だった。
「しょうがないか……」
 バイトを見つけるにしても、それまでの当座をしのぐ金銭が要る。篤は、重たい体を起こし、小春の目につかないように隠していた本の山を紙袋に移し始めた。
 そのほとんどが、エロ本、エロ雑誌、エロマンガの類いである。
 ジャンルは、多岐にわたる。篤は、その点に関しても、性の対象とする女性の年齢幅と共に、無節操であった。
「惜しいよなあ……」
 そう言いながら、篤は、煩悩の顕現とも言える書物で一杯になった紙袋を抱え、外に出た。
 そのまま、行きつけの古本屋を目指して駅前を目指す。
 薄暗がりの中を歩き、汚いどぶ川にかかったコンクリートの橋を渡り――そして、篤は、普段は曲がらない四つ辻を、気紛れで左に曲がった。
「ん?」
 見慣れぬ路地の中、古ぼけた看板が見えた。
 “古書買イ取リ升・辰巳堂”。
 どうやら、古本屋らしい。この街に住んで長いが、篤の知らない店だった。
 篤は、ふらりとその店に入った。
 中は、薄暗い。そびえ立ついくつもの本棚による圧迫感で、息苦しさすら感じる。
 店の奥に座る主人らしき男は、大袈裟なマスクとゴーグルで顔を隠している。花粉症のようだ。
「これ、売りたいんですけど」
 篤は、心の中で何度か練習してから、そう言って紙袋を差し出した。
「ん」
 主人が、無愛想に返事をして、座卓の上に本を並べる。
 篤は、かすかにいたたまれなさを感じ、見るとはなしに書棚に視線を移した。
「――なかなかいい作家ばかりだね」
 しばらくしてから、意外と若い声で、主人は言った。
「…………」
 知らない相手と話すことが苦手な篤は、どう受け答えをしていいか分からない。
「いい目をしてるねえ」
 主人は、どこか面白そうに言った。
「死んだ魚みたいな目だよ。眼病病みの負け犬の目だ。敗残者の目だね」
「は、はあ……」
「いいことだよ。肉も、人生も、腐りかけが一番美味いんだ」
「い、幾ら、ですか?」
 篤は、ようやくそう言って、主人の言葉を遮った。
 主人が何を言ってるのか、篤にはよく分からない。とにかく、金を受け取ってここから出たかった。
 外で、烏が鳴いている。
「お金で渡してもいいんだがね……。こいつと交換てのはどうだい?」
 主人は、そんなことを言いながら、一冊の本を取り出した。
 不思議な色合いの革で装丁された、分厚い本だ。古い書体で書かれた書名は、篤には判読できない。
「掘り出しもんだよ。あんたなら使いこなせる。いや、あんたにしか使いこなせないね。あんたのための本だと言ってもいい。この本はあんたのために作られたんだ」
「う……うぅ……」
 篤は、なぜか訳も無く汗をかいていた。
 一瞬、不思議な光景が、篤の脳裏にフラッシュバックする。
 古びた部屋。
 ぶら下がった足。
 その下に落ちる――歪んだ字で埋め尽くされた、一枚の便箋。
 見たことの無いはずの風景が、記憶の曠野に、虹のように鮮明にきらめき……消える。
「あ……」
 気が付くと、もとの古本屋だった。
 主人のゴーグルの奥の目が、怪しく光っている。
 主人は、篤の顔を見ながら、大きな手の平で、そろりとその本の表紙を撫でた。
 ひくん……と、本が愛撫に反応する少女のように、震える。
 少なくとも、篤には、そう見えた。
「こいつは、女の皮で装丁されてるんだよ」
 主人は、そう言って、ひどく不愉快な声で、笑った。



 気が付くと、篤は、家路に付いていた。
 両手に、例の本を抱えている。
 本は、ひどく重く、その表面は汗でもかいているようにしっとりと濡れていた。
 すっかり日の暮れた空の下、見慣れた道を歩いていると、次第に現実感が戻ってくる。
 騙された、と思った。
 結局、あの主人にこの本を押し付けられたのだ。
 金も無く、読むこともできない本を渡され、すごすごとアパートの部屋に帰って行く自分。
 確かに、負け犬だと、そう思う。
 しかし、篤は、店に戻って本を返すような気概など、持ち合わせてはいなかった。
 それだけの勇気があったら、いくら馬鹿にされても、仕事を辞めなどしなかったろう。
 職場を紹介してくれた時夫や、いろいろと面倒を見てくれる千秋にも、申し訳なく思う。
 小春や真夏にだって、本来なら会わせる顔が無いはずなのだ。
 篤は、その大きな体で盛大に溜息をついた。
「お、肥田サン、今帰り?」
 アパートの前で、いきなり声をかけられ、篤は立ち止まった。
 声の主は、ちょうどアパートから出てきたところだった。右側で分けられたワンレングスの長髪が、表情豊かな瞳のうち左側を半ば隠しているのが印象的な顔。そのしなやかなで均整の取れた体を、趣味のいい服で包んでいる。
 いかにも、今時の娘、といった格好をした彼女の名は、天城美鶴という。篤と同じアパートに住む女子大生だ。
 篤は、密かにこの美鶴を苦手にしていた。いかにも自分というものに自信を持っていそうな態度と、誰にでも気軽に話しかけてくるような明るさ、篤の性格とは正反対で、眩しく感じられたからだ。
 一方、美鶴の方では、篤に対して何ら屈託を抱いていない様子だった。
 ただし、男としてもまるで意識していないであろうことは、篤にも感じられた。
「アタシたちは、これから出かけるから。下着ドロとか見つけたら追っ払ってネ」
「う、うん」
 篤は、本を抱えたまま、こっくりと肯いた。
「あ、あの……お願いします……」
 美鶴とは対照的な、地味な服を着た娘が、美鶴の後ろから現れ、篤に小さく頭を下げる。
 彼女は、本条桜。美鶴と同じく、このアパートの住人である。通っている学校も美鶴と同じで、よく合コンなどに付き合わされているらしい。
 メガネをかけ、髪を一本の三つ編みにまとめた桜は、いかにも合コンなど苦手そうに見える。おそらく、美鶴は、そんな桜を面白がりつつも、男に対する免疫を与えようとしているのだろう。
「じゃあ、いってきま〜す」
 美鶴は、ブランド物らしきバッグを無造作に肩にかけながら、篤の横を通り過ぎた。桜が、再び篤に頭を下げ、美鶴に続く。
 桜も、数年後には美鶴のようになるんだろうか、と、そんなことを考えながら、篤が自室のドアを開ける。
 靴を脱ぎ、薄暗い部屋に上がってから、篤は、抱えていた本をまじまじと見詰めた。
「いったい、何が書いてあるんだろう……?」
 もしかしたら、中身は日本語かもしれない。いや、英語だとしても、少しならば意味は取れるはずだ。
 店の主人にからかわれただけで、単なる愚にも付かないオカルト本である可能性も捨て切れない。
 篤は、電灯を点け、万年床の上にあぐらをかいてから、本を広げた。
 ぬるり、と、何とも異様な感触が、ページを繰る指に残る。
 それは、不快感を通り越し、どこか官能的でさえあった。
「え……?」
 開いたページに、横書きでびっしりと字が印刷されていた。
 いや、それは――字ではなく、精密に書かれた人の目の絵だった。
 睫毛や虹彩までも描かれた小さな人の目の絵が、羊皮紙のような色合いの紙の上に、ずらりと並んでいる。
 そして――
 その、絵に過ぎないはずの目が――瞬きをし、ぎょろぎょろと瞳を動かし始めた。
「う……わあああああああああー!」
 篤は、情けない声で叫んで本を放り投げた。
 ばさあっ――!
 本が、敷きっぱなしの布団の上で大きく跳ね、乾いた音をたてて空中で破裂する。
「ひいいぃー!」
 ページが飛び散り、渦を巻くようにして部屋の中を舞う。
 いつしか、篤の部屋の中に、小さな竜巻が発生していた。
「あわっ、あわわっ、うわわわわわ!」
 部屋の中をぐるぐると紙が巡り、そこに描かれた無数の目が、篤を見つめている。
 そして、それらの紙は、いっせいに炎をあげて燃え出した。
「ぎゃあああ、火事っ! 火事になるっ!」
 篤が、あたふたと手足を動かしながら、叫び声を上げる。
 だが、パニックに陥った篤は、ただ大騒ぎをするだけで何もできないでいた。
 赤い炎と黒い煙が部屋の中で渦を巻き――そして、次第に一本の柱へと形を変えていく。
 いや、それは、単純な円筒ではなく、複雑な造形を有していた。
 そして――
「あーっ、もう、何て召喚の仕方ですの!」
 いきなり、かん高い声が、篤の部屋に響いた。
「ふえ……!」
 篤は、腰を抜かしていた。
 篤の目の前に、ビザールな衣装に身を包んだ少女が、腰に手を当てて立っている。
 風の名残が、少女の豪奢な金髪をなぶっていた。
「ま……魔女っ子……?」
 篤は、思わずそんなことを言っていた。
 年の頃は、十代半ばに見える。特徴的なのは、まるでSMの女王様のような漆黒のいで立ちに映えるミルク色の肌と、金髪碧眼。その、左目の下から左の太腿にかけて、蛇らしき文様をかたどった真紅のタトゥーかボディー・ペインティングが描かれている。それだけならまだしも、小さな頭からは、まるで側頭部を囲むように、後ろから前に褐色の角が伸びている。
 背中から生え、動いているのは、どう見てもマントではなく、コウモリのそれに似た一対の翼だ。
 となると、腰から伸びているしなやかな鞭のようなものは、尻尾だろう。
 ともかく、目の前に現れたそれは、どう見ても常の人間ではあり得なかった。
「魔女などという、中途半端な存在ではありませんわ」
 少女は、綺麗な発音の日本語でそう言って、胸を張った。
 爆乳という表現が最も似合う砲弾型の乳房が、ぶるんと揺れる。
「じゃ、じゃあ……?」
「由緒正しい堕天使ですわ。あのジル・ド・レエを破滅させた悪魔も私――の、遠縁にあたりますの」
 “わたし”ではなく“わたくし”と自らを称しながら、少女が言う。
「ところで、ずいぶんとせせこましい場所ですのね。これでも魔術師の工房ですの?」
「魔術師って……ボクが?」
「体裁を取り繕わなくてもいいですわ。博士だの哲学者だのと名乗っても、魔術師は魔術師。本質に変わりはありませんもの」
 少女は、ブルーの瞳に悪戯っぽい光を浮かべながら、ほほ笑んだ。
「い、いや、そうじゃなくてさあ……」
 篤は、長く伸びた髪を掻きながら、もごもごと言った。
「えーと……つまりキミは、ボクの願い事を叶えてくれるわけ?」
「バロネッサとお呼びいただけます?」
 少女――バロネッサは、高慢そうな表情と口調のまま、言った。
「それと、願い事の件ですけど、そういう直接的な言い方、私、嫌いではありませんわ。まあ、その条件についてはこれからの交渉次第ですけれども」
「うひぁ〜!」
 篤は、口を開けて奇妙な声を上げた。
「すごいっ! すごいよぉ! 落ちモノだよ! ボクの部屋に魔女っ子がやってくるなんて!」
「だから、魔女ではなくて悪魔ですわ!」
 むっとしたような顔で、バロネッサが訂正する。
「――ちょっと! さっきからうるさいわよ!」
 突然、そう厚くない壁越しに、険しい女の声が響いた。
「す、すっ、すいませんっ!」
 篤が、壁に向かって頭を下げながら謝る。
「……今の、何ですの?」
「お、お隣のワタナベさん。おっかないんだよォ」
 篤の住むアパートは、木造二階建てで、上下の階にそれぞれ二部屋ずつがある。篤が住んでいるのは一階で、美鶴と桜が住んでいるのが二階だ。
 そして、篤の隣に住むのが、このアパートのトラブルメーカーである一人暮らしの中年女だった。奇怪な新興宗教にハマって以来、精神の平衡を失い、夫と子供が逃げ出してしまったといういわくつきの人物である。
「ふうん……」
 バロネッサは、青い目を細めてから、辺りをきょろきょろと見回した。
「その隣の部屋へは、どう行けばいいんですの?」
「え、えと、あのドアから外に出て、左に……」
 バロネッサは、篤の言葉が終わらないうちに、出入り口に向かって歩きだした。
「え、えぇ〜っと……」
 ぽかん、とした顔の篤を残し、バロネッサが部屋を出て行く。
 しばらくして、隣から、奇妙な喧噪が聞こえ出した。
「な、何よアンタ……! キチガイ……?」
「気違いとは何ですか! 失礼なっ!」
「そ、そんな格好見ればだれだって――フギャアアアアアア!」
 獣じみた悲鳴が、辺りに響く。
「な? なに? なに?」
 尋常でない雰囲気に、篤が部屋の中でおろおろとしていると、ドアが開き、バロネッサが戻ってきた。
「な……何したの……?」
「無礼な口をきいたので、呪いで猫に変えてきましたの」
 涼しい顔で、バロネッサは言った。
「な、なんだってえェ……?」
「こう見えても、呪詛系の魔術の成績は優秀でしたのよ」
「そ、そんな……」
「さあ、それより、交渉を始めましょう」
 バロネッサは、尻尾を長く伸ばして床につき、まるで椅子にでも座っているような姿勢になって、空中で足を組んだ。
「こ、交渉って言われても……あの、魂とか、そーいうの渡すやつだよね」
「そうですの。話が早くて助かりますわ」
 バロネッサは、あどけなさの残る顔ににっこりと笑みを浮かべた。
「願い事の報酬は、魂。それでこそ真の契約ですわ。最近、何かと別のもので済まそうとする連中が多くて、私達、たいへん困ってますのよ」
「は、はあ……」
「では、願い事一つにつき魂一つ。それでよろしいですわね?」
「う、うん……」
「契約成立ですわ!」
 ぽん、とバロネッサは小さな両手を打ち合わせた。
「夢みたい! 最初のお仕事がこんなに好条件の契約だなんて!」
「え……最初の……?」
「あ……何でもありませんわ。お気になさらずに」
 こほん、と小さく咳払いをして、バロネッサは言った。
 どうやら、自分はかなり安く魂を買い叩かれたらしい、と篤は思った。考えてみれば、童話などにおけるスタンダードは、“三つの”願い事だったはずだ。
「ところで、願い事はもうお決まりですの?」
 バロネッサが、篤に顔を近付けながら、訊く。
 前屈みになったバロネッサの胸の谷間に視線を吸い寄せられながら、篤は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「ね……願い事って、何でもいいの?」
「“永遠”に関することと、願い事そのものを対象とするようなものはいけませんわ。不老不死ですとか、“願い事を百に増やしてくれ”なんてお話は聞けませんので、そのつもりで」
「あう……やっぱダメか……」
 だれでも一度は考えることを否定され、篤は唸った。
 そんな篤を、バロネッサの澄んだ青い瞳が、面白そうに見つめている。
「え、えっと、じゃあ……」
 しばらく考えた後、篤が口を開いた。
「何ですの?」
「あのう……お、女の子と、仲良くできるようになりたいんだけど」
 バロネッサは、きょとんとした顔になった後、体を引いて篤を見下ろした。
 その瞳には、あからさまな軽蔑の色が浮かんでいる。
「そんなのでいいんですの?」
「う……うん……できる?」
「できますわ。簡単なことです」
 バロネッサは、一度空中に浮かび、床に降り立った。
「では、私の力でそのようにいたしますわ」
 そう言って、幼げな顔に似合わない妖しい笑みを、口元に浮かべる。
「あなたに、どんな女でも狂わせるだけの魅力を差し上げます。でも、その暁には、魂を頂きますわよ」
「う、うん……」
 深く考えもせず、篤がこっくりと肯く。
「はい……では、服を脱いでそこに横になってくれます?」
「ええ? ハ、ハダカになるの?」
「ええ。その方が、魔術の定着率が上がりますもの」
「で、でも……」
 未だ、異性の前で肌を晒したことなど無い篤が、目に見えて躊躇する。
「ああ、もう! 今さら何を尻込みしてるんですの?」
「だ、だってさァ……」
「私、あまり気の長い方ではありませんわよ」
「それはまあ、そうじゃないかなあ、とは思ってるけど」
 篤が、ごにょごにょとはっきりしない発音でつぶやく。
「――えい!」
 バロネッサは、突然篤に右手の人差し指を突き付けた。
「うわあああ〜!」
 目に見えない力に押し倒され、篤が、万年床の上にごろんと仰向けになる。
 バロネッサは、つまらなそうな顔で、右手を水平に一閃した。
 篤の巨体を包んでいた服が、一瞬で引き裂かれ、ただの布切れと化す。
「ひいいいぃ〜」
 篤が、悲鳴を上げながら身をよじる。だが、篤の四肢は、まるで上から押さえ付けられたかのようにびくとも動かず、ただ山のような腹がゆさゆさ揺れるだけだ。
「情けない声を上げるものではありませんわ。それでも魔術師ですの?」
「ボ、ボク、そんなんじゃないよォ〜」
「この期に及んで何を言ってるのですか」
 そう言って、バロネッサは、辛うじて篤の股間を隠していたズボンとブリーフの残骸を、ひょい、と脇にどけた。
「きゃっ……!」
 バロネッサが、意外なほど可愛い声で小さく声を上げる。
 露わになった篤の陰茎が、仮性包茎ながら、堂々としたサイズを誇っていたのだ。
「うふふふふ……どんなに可愛らしいモノが出てくるかと思ったら……」
 白磁のような頬をほんのりと染めながら、バロネッサが淫蕩な笑みを浮かべる。
「なかなかに立派ですわね。そんなに恥ずかしがることないですわ」
「そ、そうなの?」
 女性経験など皆無な篤にとって、それは、ちょっとした驚きだった。
「まあ、それはともかく……さっさと済ませてしまいますわね」
 バロネッサは、真顔に戻り、その両手で複雑な印を組んだ。
 ぼう、と篤の周囲の空間が緑色に光る。
「バガビ・ラカ・バカベ・ラマク・カヒ・アカバベ・カルレリオス……!」
 呪文らしき物を唱えながらバロネッサが両手を動かすと、まるで蛍でも飛んでいるように光の点が飛び、その軌跡が、円と三角形を組み合わせた奇妙な図形となっていく。
「う、うわあ、わあああ、わあああああ〜」
 全身を包み込む異様な感触に、篤が、声を上げた。
 まるで、肌の表面を、無数の虫が這い回っているようなこそばゆさだ。
 産毛がちりちりと逆立ち、体が、ひくん、ひくん、と震える。
 いつしか、篤のペニスは隆々と勃起していた。
「ひやあああ、な、何かヘンだよォ……うひ、うひひ、うひい……」
 皮膚を撫でる感触がはっきりとした快感となり、それが、下腹部に集中していく。
 篤の肉棒が、シャフトに血管を浮かし、包皮から亀頭を露出させながら、さらに膨れ上がった。
「うあ、ああう、ほひ、ほひ、ほひい……すごい……ああああ……あひいいいいぃ〜」
「ああもうっ! ヘンな声出さないでくださいっ! 集中が乱れますわ!」
 そう言いながら、バロネッサが、複雑な文様を指先で空中に描いていく。
 その金色の髪が、まるで無数の蛇ででもあるようにざわざわと乱れ、漆黒の翼が左右に広がる。
「ラゴス・アタ・カビオラス・サマハク・エト・ファミオラス・ハルラヒヤ……!」
 バロネッサの翼の表面に、一つ、また一つと、人のそれに似た目が浮かび上がる。
 それは、せわしなく瞬きをしながら、ぎょろぎょろと眼球を動かしていた。
「帝王ルキフェルよ……皇太子ベルゼブブよ……女王リリトよ……大公アスタロトよ……宰相ルキフグス・ロフォカルスよ……! 我は求め訴えたり……!」
 ついに、バロネッサの翼は、無数の目で埋め尽くされた。
 その視線が、今は、篤の股間に集中している。
「万魔殿の主マンモンよ……七十二柱の魔神よ……この罪人に異性を狂わせる力を……!」
「あひゃああああああ!」
 びくん! と篤の体が、弓なりに反り返った。
 そして、ペニスの先から腺液を溢れさせながら、びくびくと痙攣する。
「あう、あうう、うあ、あひいいいいいい〜!」
 篤が、口から涎をこぼしながら、動物のように喚く。
 とっくに射精に至るまでの快楽を与えられながら、強制的に輸精管を塞がれているような、そんな強烈な苦痛が、篤を苛んでいた。
「……あ、あら……おかしいですわね」
 バロネッサは、その形のいい眉を寄せながら、つぶやいた。
「これで儀式は完成されたはずですのに……」
「うあああああ〜! ど、どうにかしてよォ〜! 出したいっ! 出したいのに出ないィ〜!」
 篤が、情けない声をあげながら身悶える。
 そのペニスは赤黒く鬱血し、今にも浮き出た血管が破裂しそうだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいません? もしかしたら手違いかも……」
「ぎひいいいいいい〜! 早く早く早く早く早く早く早く早くうううゥ〜!」
「待ってと言ってるじゃありませんか! 静かになさっててください!」
 どこから取り出したのか革表紙の小さな本のページをめくりながら、バロネッサが声を上げる。
「あうっ! あうっ! あうっ! あうっ! チンチンが、チンチン破裂するゥ〜!」
「こ……こんなはずはありませんわ……詠唱も儀式も完璧だったはずなのに……」
 本のあちこちを指で追いながら、バロネッサはつぶやいた。
「ああああああああああ〜! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬう〜!」
「だから黙っててください!」
 そう言いながらも、さすがに心配そうな顔で、バロネッサが篤のペニスに顔を近付け、凝視する。
「まったく……いったい何が原因で……」
 バロネッサの吐息が、篤のペニスをかすかにくすぐる。
 ――と、その時だった。
「ほへえええええええええ! で、出るうううううううゥ〜!」
「きゃあっ!」
 ビュッ! ビュビュッ! ドビュビュビュ! ブビュウウウウウウウー!
 大量の精液が、篤のペニスから迸る。
 驚くほどの飛距離を見せたそれを、バロネッサは、避ける間もなくまともに顔に浴びてしまった。
「な、何をするんですかっ!」
「あわ、あわわわわ……ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいいいいいぃ〜!」
「全くもうっ……!」
 バロネッサが、顔にべっとりと付着した糊のような精液を、手で拭う。
「もう……こんなに出して……」
 そう言いながら、バロネッサは、ザーメンまみれになった自らの指を、じっと見つめた。
 バロネッサの顔が、次第に、紅潮していく。
「ああ……すごい……すごい匂いですわ……」
 バロネッサの言うとおり、すさまじい臭気が、部屋に充満している。
 優美な曲線によって構成された指を汚す、黄ばんだゲル状の精液――
 それを、バロネッサは、ちろりとピンク色の舌で舐め取った。
「ああン……」
 バロネッサの唇から、甘いため息が漏れる。
 バロネッサの瞳が潤み、その整った顔には、うっとりとした表情が浮かんでいた。
「え、えっと……」
 篤が、茫然とした顔で、バロネッサを見つめている。
「やっぱり……おかしいですわ……こんな……」
 バロネッサは、かすれた声でそう言いながら、仰向けなままの篤の脚の間に跪いた。
「ああ……そんな……ダメ……こんなことしちゃダメなのに……」
 バロネッサが、悩ましげに眉をたわめながら、篤の股間に顔を埋めていく。
 篤のペニスは、未だ、萎えていなかった。
「その……あなたのここを、調べます……これからすることは、あくまで調査ですわよ……」
「え……? それってどういう……」
 聞き返す篤に答える事なく、バロネッサは、しばしためらった後、震える唇を亀頭にかぶせた。



第2話へ

目次へ