エピローグ
その日の朝、いつもどおりジャージ姿で現れた芙美子は、妙に晴れやかな顔をしていた。
「何だ、いいことあったのか?」
「え? ん、まあ、ちょっとね」
素っ気ない答えを返しながらも、芙美子のニヤニヤ笑いは収まっていない。
「何か――夢見がよかったの」
さらに言葉を続ける芙美子の頬が、ほんのり赤く染まっているように見える。
「へえ、珍しいな。確かお前、あんまり面白い夢は見ないんじゃなかったっけ?」
「まあね」
「追い掛けられる夢とか、取り残された夢とか、間に合わない夢だっけ?」
「人の発言内容を、よくもまあそんなふうに覚えてるわね」
芙美子は、どこか呆れたような表情になった。
そして、そのまま、二人で、並んで駅への道を歩き出す。
「……余裕なかったのかな、あたし」
ぽつんと、芙美子が、秋の空に向かって、言った。
「ところで、今朝の楽しい夢ってのは、漫画のネタになりそうか?」
「どうかな。あたし個人が楽しいだけで、他人が聞いて面白いと思うかどうかは、正直、微妙」
「ふーん」
「ま、そのままは無理でも、参考くらいにはなるかもね」
そこまで言ってから、芙美子は、妙な感じで顔をしかめた。
「えっとさ……あたしがまた漫画を描き始めたこと、あんたに言ったっけ?」
「言われなくたって、それくらいは分かるさ」
何言ってんのよ、と鼻で笑われるかと思ったが――芙美子の奴は、妙に真剣な目つきで、じーっと俺の方を見つめた。
「あ、えーっと、で、今描いてるのは、どんな話なんだ?」
湧き起こる気恥ずかしさを隠しながら、話を続けようと試みる。
「まだ、アイデアがストーリーにまでまとまってないんだけど……勇者とお姫様の話になるかな」
「そっか。楽しみだな」
「他人事みたいに言わないでよ。あんた、あたしのアシスタントでしょ」
「あ、ああ、そうだな。美味いコーヒー淹れてやるよ」
「うん……よろしくね」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙の中で、やり取りした言葉以上の何かが、俺と芙美子の間で交信されたような――そんな感覚を抱く。
「それより、透、急がないと、50分の電車に間に合わないんじゃない?」
「そうだな」
芙美子の言葉をきっかけに、俺達は足を速めた。
頭上の秋空は高く、蒼く、そして、どこまでも四方に広がっている。
そんな同じ空の下に、俺と芙美子が一緒にいることが、なぜか、とんでもない奇跡のように、感じられた。
夕方、学校から帰宅すると、自宅の前に、ワインレッドのスーツに身を包んだ紅葉さんがいた。
「あ……ども」
一応、ぺこりと、頭を下げる。
「事件は解決したようだな」
例によって火の点いていないタバコを咥えたまま、紅葉さんが、唐突な感じで言う。
「事件、ですか」
「ああ。我々の業界では、このような夢だの異次元だのが関係する常識はずれの事件を、“超常事件”と称している。そして、私は、それを解決することを仕事とするものでな。“D.D.”と自称している」
そんなふうに言ってから、紅葉さんは、何がおかしかったのか、くつくつと笑い出した。
「間抜けだな。ラストシーンでようやく自己紹介とは」
「ラスト、ですか?」
「ああ。事件は解決した。事件解決の任に当たっていた探偵は、退場すべきタイミングだ」
探偵、という言葉に俺は思わず目を瞬かせた。
でもまあ、紅葉さんは警官や刑事には見えないし、それで事件を解決する立場と言ったら、探偵でいいのかな?
「じゃあ、その……今回の事件は、いったい何だったんです?」
探偵小説のセオリーに従って、俺はそう訊いてみる。
「そうだな……例えば、君と彼女の夢が単純につながっただけだったら、もう少し話は単純だった。要は、そのつながったトンネルを塞ぎ、チャンネルを断ち切ればいいだけの話だからな。そういうケースは、私も何度か解決していた。しかし、今回のケースはそうではなかった。そもそも、少年、君が夢を見ている時、あの娘が夢を見ている時間帯ではなかった」
「…………」
「君が夢によってアクセスしたのは、いわゆる普通の夢ではなかったのだな。夢には違いないかもしれないが、もっと堅牢な構造をもつもの……個人レベルの幻夢郷とも言うべきものだったのだな。あの娘――に限らず、人は、奇っ怪なことに、内面を外部化することに成功した。寝てもいないのに夢を見るなど、おそらく、この星においては人間だけだ。それが、今回の問題の一つの原因かもしれん」
「すんません、やっぱ、紅葉さんが何を言ってるのか俺にはさっぱりです」
俺の正直な告白に、紅葉さんは、やれやれ、と肩をすくめた。
「君には、この件を感覚的・直観的に理解するための素養があるはずなのだがな。ある意味では、私以上に」
「そうなんですか?」
「そうでなければ、あの魔剣の企みに囚われることなく生還したことが説明できない」
紅葉さんは、一呼吸おいて、俺を真っすぐに見つめたまま、言葉を続けた。
「つまりだな、少年、君にはおそらくD.D.としての才能があるということだ」
「そんな、何だか分からないものの才能があるって言われても」
「そうか」
俺の当然すぎるはずの言葉を、紅葉さんは華麗にスルーする。
「今回の記憶の一切を消すことも考えたが――」
そう言いながら、紅葉さんは、どこからか取り出したライターを、手の中で弄んだ。
だが、その視線は、俺を捕らえたまま離さない。
「――しかし、君が今後、我々の業界に入ることも考えられるので、やめておく」
「そんなにホイホイ記憶を消されても困ります」
「そうやって君に抵抗されるリスクもある。君は、何しろ“黒い男”の顕現の一つである72本の魔剣の所有者にして友人なのだからな」
そう言って、紅葉さんは、ライターをポケットにしまった。
そして、もう話は終わった、とでも言いたげに、歩きだす。
「ああ、それからな、あの娘との今後の関係だが――」
不意に足を止め、紅葉さんが俺に振り返る。
「な、何です?」
家の門を開けかけていた俺は、思わず声を裏返らせてしまう。
「いや、やめておこう。あまり口を出すのも考え物だ。私は君の母親ではないのだからな」
そんなふうに言って、紅葉さんは、今度こそどこへともなく歩きだしたのだった。
そして、俺は、今夜も夢を見る。
夢を見るという行為が、はたしていかなる意味を持つのかは、今をもってしても分からない。
無意識の欲望の充足なのか、起きている間に得た記憶情報の整理なのか、現実とは異なる次元にアクセスしているのか、それとも、世界を――
「……いったい、何なんだろうな」
俺は、何もない暗黒の中で、ぼんやりと呟いた。
ふと、背後に、気配を感じる。
振り返ると、そこに、優美なデザインのドレスをまとったイレーヌさんがいた。
気が付くと、俺は、アイアケス王国でよく着ていた服を身にまとい、空っぽの鞘を背負っている。
「イレーヌさん……」
俺は、穏やかな笑みを浮かべるイレーヌさんに、声をかけた。
「何でしょう?」
「あの……不躾な質問だったらすいません。えっと……あなたは、何者なんでしょう?」
俺の質問に、イレーヌさんは、可愛らしく小首を傾げた。
「アイアケス王国第一王女にして、トール様の婚約者、というお答えでは、満足いただけませんか?」
「あ、いや、その……満足というより、納得というか……その……」
俺は、自分から問いかけたくせに、みっともなく口ごもってしまう。
「それとも、私が……私達が、トール様の恋人さんの夢の住人であるというお答えをお望みですの?」
「…………」
俺は、言葉を返すことができない。
イレーヌさんの顔には、哀しみや怒りの表情は無い。ただ、穏やかな笑みを浮かべているだけだ。
「では、こちらからも質問させてください」
「え、ええ」
「トール様の世界では、世界を創造したのは、何者だと言われていますか?」
「は? え、えっと……」
俺は、イレーヌさんの質問の意図を捕らえかね、しばし、言葉を探した。
ええい、ともかくここは、できるだけ誠実に答えるまでだ。
「その、俺は、あんまり詳しくないんですけど……世界は、何かすごい大爆発があって、それで宇宙が広がって……それで、ガスが星になったり何だりして、ってのを、聞いたことがありますけど……」
「それは、始まりの在り方ですよね? では、その始まりの状態を作ったのは、何者なんでしょう?」
そんなことは、俺には分からない。
だけど、もし、そういうことをやった何かがいるんだら、それをどう呼べばいいのかは、俺は知っていた。
「そういうのは、神、って呼ばれますね」
「では、その“神”を創造したのは?」
瞳に真摯な光を湛え、イレーヌさんが、さらに訊いてくる。
「えっと……」
「神という名前、概念、存在……それは、人間が現れる前には、あったでしょうか?」
神官であるはずのイレーヌさんが、かなりきわどい話をしている。
「つまり……人間が、神を創った……」
一方、俺は、ごくすんなりと、そんなことを言ってしまった。
「世界と人間を作ったのは神――そして、神を作ったのは人間――不思議な堂々巡りですね」
イレーヌさんが、どこか満足そうな口振りで、言葉を続ける。
「では、例えば、私が、トール様や、トール様の家族や、トール様の住む街や国――そして、恋人を創ったのだと考えることは、できませんか?」
「イレーヌさんが?」
「ええ……妹たちと一緒に、他愛もない恋への憧れを材料にして……」
「…………」
「トール様の認識はどうあれ、私達の国が滅びに瀕していたのは確かです。そして、私は、その運命を変えたかった。幸い、私は――私達は、その方法を知っていました」
次第に、暗黒だった周囲に、不思議な光が満ちていく。
「何も無いところから英雄は呼び出せない。だから、私は、私たち姉妹の理想の英雄を――勇者様を、その勇者様が住む世界ごと、創造――想像したんです。勇者様が、この世界に来てくださる理由とともに」
つまり、設定ごと、キャラクターを作った、ってことか。
そりゃ、普通だ。当たり前のことだ。設定ぬきでキャラクターは作れない。
もちろん、初期段階では、その設定が曖昧にしか決められていないということもあるだろう。
そう言えば、俺、この世界に召喚された時、いろいろ記憶があやふやだったような――
「私が、トール様を、トール様の恋人や、トール様につながるあらゆるものとともに、創ったのです。私にはその力があります。だって、私は――詩人ですもの」
だんだんと、光が色と形を獲得していく。
そこは、どこか見覚えのある森の中の遺跡だった。
「私が、ニケが、ミスラが、スウが、全て等しく恋するような、素敵な勇者――救国の英雄――」
ああ、ここは、イレーヌさんが俺を呼び出した場所――いや、そうじゃなくて――俺を――
「四天王がロギを創ったように、私が――私たち四姉妹が、あなたを創ったのだとしたら――」
「っ……」
ぞくっ、と得体の知れない戦慄が、俺の背中に走る。
自らの存在の根幹にかかわる恐怖――
「……ごめんなさい、トール様」
一転、穏やかに微笑んでいたイレーヌさんが、しゅん、とした表情を浮かべた。
「今の話は、全て、確信あってのことではありません。可能性の一つです」
まるで、イタズラの言い訳をしている小さな女の子のような口調で、イレーヌさんが言う。
「トール様が……その、恋人の方とあんまり仲が良いので……その、えっと、ヤキモチで、ちょっと恐いお話をしてしまいました」
「あ、いえ、その、ぜんぜん平気です」
そう言いながら、俺は、自分がこの目の前のお姫様にベタ惚れであることを再確認した。
いつだったか、スウが、イレーヌさんは怒ると恐い、と言っていた。
今、その一端を垣間見た思いだが……イレーヌさんの怒ったところも、その後で反省しているところも、とにかく、何もかもが、可愛いと思う
俺の正体がいったい何かなんてことに関わる、ちょっとした恐怖なんて、このイレーヌさんの存在に比べたら、ほとんど何の意味も無い。
だと言うのに、俺って奴は――
「私は、トール様の恋人の分身かもしれません……でも、それで満足するには……その……私……」
そう、あなたは幻かもしれない、なんて話を始めたのは、俺が先なのだ。
俺は、ちょっと前の自分をぶん殴ってやりたいほどに後悔した。
「私……愛してるんです……トール様……」
イレーヌさんが、その瞳に涙を浮かべる。
俺は、その体を抱き締め……柔らかく艶やかな唇に、キスをした。
「……枕井透は、若葉芙美子を愛してるかもしれません」
唇を離し、イレーヌさんに言う。
「でも、俺が――トール・マクライが愛してるのは、あなたです」
それは、単なるレトリックだったかもしれない。
俺は、結局は言葉の先だけで逃げているのかもしれない。
つまり、今言ったことは、その場しのぎの嘘なのかもしれない。
それでも――それでもイレーヌさんは、本当に嬉しそうに、微笑んでくれた。
「トール様……ふつつか者ですが……これからも、よろしくお願いします……」
そのイレーヌさんの声に誘われたように、木の幹や石柱の影から、見知った人々が現れる。
「よろしくね、トール君」
ゼルナさんが、婉然と微笑む。
「お師匠様、よろしくお願いしますぅ」
レレムが、明るい笑みを浮かべる。
「これからもよろしく頼むぜ、トール」
ニケが、いつものごとく、ニヤリと男前な笑みを見せる。
「えっと、まあ……その、よろしく」
ミスラが、口元にかすかな笑みを含みながら、照れ隠しのように言い、そしてそっぽを向く。
「んふふっ、よろしくね、お兄ちゃん。ここでサイカイした以上、この後、どんな冒険が待ってるか分からないんだから」
スウが、悪戯っぽい顔で笑う。ところで、サイカイって再開? それとも再会か? まあ、どっちでも同じか。
「こちらこそ、よろしく」
俺は、改めてそんなことを言いつつ――みんなの代表ってわけで――イレーヌさんの体を、さらにきつく抱き締めた。
イレーヌさんも、俺の背中に回した手に、力を込める。
「私は、歌い続けます。あなたのことを……私のことを……あなたの次に大好きな、この世界のことを……」
イレーヌさんが、俺の胸に顔を埋めながら、涙声で言った。
だから、これからも、この世界はあり続ける。
イレーヌさんが、ニケが、ミスラが、スウが――そして、ゼルナさんやレレムや、他の多くの人々が、傍らにいてくれるのだ。
その事実に比べたら、誰が本当にこの世界を作ったかなんて二の次なんじゃないか――
俺は、今、心の底から、そんなふうに思うのである。