フリーのエロテキストライター巽ヒロヲのページ
「迷子になったあ?」
バスの中であるにもかかわらず、葛城知巳は、携帯電話に向かって大きな声をあげてしまった。
「うん……駅から、違うバスに乗っちゃったみたいで……全然知らないところに来ちゃった」
あははー、などと笑いながら、電話口の向こうの葛城朱美が言う。
知巳と朱美は、双子の兄妹だ。二人とも、葛城家に伝わる古武道・葛城流柔拳術を叩きこまれた身である。
二人の父である修三は、この街に住む皆月京次とは面識があった。互いの技を磨くために拳を交わしたことも、一度や二度ではない。
そんな京次の家に、双子は、電車を乗り継いで久しぶりに遊びに来たのだ。思えば、以前、父に連れられて京次の家に来たのは、小学校低学年の頃だった。
その頃、京次は、家庭内にごたごたが起きて大変だったらしい。修三は後日「人生の先輩として相談に乗ったのだ」などと言っていたが、母親の千恵子ならともかく、あのデリカシーのかけらもない父親が有用な助言をしたなどとは、知巳も朱美も、露ほども考えていなかった。
それはさておき――
「とにかく、一回駅に戻って、正しいバスに乗るしかないだろ」
「でも、バスの路線って分かりにくくて……それに、バス停からの地図、お兄ちゃんが持ってるんでしょ」
「お前なあ、高校生にもなって迷子なんてシャレにならんぞ」
「だって、そもそもはお兄ちゃんがいけないんじゃない! ボクのこと置いて電車に飛び乗っちゃうから!」
双子は、互いに携帯電話を握り締め、不毛な言い合いを続けている。
「日頃の鍛錬が足りないから出遅れるんだ!」
「お土産のケーキ持ってるんだから、振り回して走るわけには行かなかったでしょ!」
「――じゃあ、これからどーするんだ?」
「京次さんに電話して、ここのバス停の名前言ったら、迎えに来てくれるって」
知巳の問いに、朱美はそう答えた。
「京次さん、誰かさんと違ってやさしーんだから」
「う……」
「だから、お兄ちゃん、先に皆月さんの家に行ってて」
「でも京次さんは、お前を迎えに行ってるんだろ?」
「留守番がいるから大丈夫だって言ってたよ」
「ふーん」
と、知巳の乗るバスが、目的のバス停に着いた。
「あ、バス停に着いたから、切るぞ」
「うん、分かった」
知巳は、朱美の返事を聞いてから、携帯電話を切り、一つ溜息をついた。
その頃……
「パパ、これからお出かけ?」
「んー、朱美ちゃんを迎えに行く」
「アケミ?」
京次が不用意に漏らしてしまった一言に、雪之絵命はその綺麗な曲線を描く眉を跳ね上げさせた。
「アケミって、誰?」
「だ、誰って、知り合いの娘さんだよ。今日、こっちに遊びに来るって」
「――なんだか、素人っぽくない名前だけど?」
命は、以前に京次がその名前を寝言で言っていたのを思い出しながら、無理に抑えた声で言った。
「ち、ちがう、誤解だ。こっちの朱美ちゃんは素人の朱美ちゃんだ!」
娘に痛くない――いや、実はちょっと痛い腹を探られた京次は、慌てた末に自ら傷口を広げてしまう。
「パパ……もしかして浮気してるの? その、アケミってのと」
命は、母親譲りの形のいい目に、冴えた刃のような光を浮かべながら、訊いた。
「そ、そんなわけあるか。この朱美ちゃんはまだ子供だ。お前と同じで高校生だぞ」
未だ動転しつづけている京次は、つい、そんなコトを口走ってしまう。
「高校生――」
一瞬、きょとんとした顔になった命の全身から、ぐわあっ、と青白いオーラが立ち昇る。
(高校生――私が、自分はまだコドモだからってガマンしてるのに――パパってば高校生と――!)
冷静に考えれば、京次が娘と同い年の少女に手を出すような男ではないということくらい分かるはずではあるのだが、今の命に冷静になれというのは、核融合を常温で起こせというのと同じことだ。
「い、いかん、もう行かなくては」
京次は、わざとらしくそう言いながら、アパートのドアを開けた。
「じゃあ、命、サラと仲良く留守番してくれよ」
「――」
命は、ぷーっ、と頬を膨らませたまま、答えない。
「じゃあ、行ってきます!」
ばたん、とドアを閉じるまで、京次は、命の刺すような視線を背中に感じていた。
「やれやれ……」
そう言いながら歩き出す京次は、命とサラに、もう一人の来客があるはずだと言うことを、すっかり忘れてしまっていた。
しばらく後……
「命、あんたのヘボ親父、出かけたの?」
サラメロウが、半ば開けたふすまから、ひょい、と顔を出して訊いた。
京次が出かけたなら、義手と義足を外す。それが、この家にサラが暮らす条件だ。
「すぐ帰ってくるから、あんたはそのままでいいよ」
命が、サラに背中を向けたまま、そんなことを言う。
「ふーん」
サラは、無表情のまま、抱えてる袋からゴマのおせんべを取り出し、ばりっ、とかじった。
「確かに、その方がいいかもね。部屋の外に、ヘンな男がうろついてるから」
「え?」
命が振り返ると、サラは、おせんべをばりぼりとかじりながら、窓の外を見ていた。
二人で協力して、鳳仙家に雇われたヒットマンを撃退したのは、つい最近のことである。命は、顔を引き締めた。
「ガキだけど、足の運び方は、素人じゃないかも」
「あんたが年のこと言えるの?」
「それはお互い様」
そう、サラが言ったときには、命は靴を履いていた。
そして、無造作に、ドアを開ける。
そこには知巳がいた。
「あ、やあ」
知巳は、郵便受けで確認した京次の部屋から出てきた少女に、軽く手を上げた。と、その表情が凍りつく。
長い髪をツインテールに結んだ、普段なら愛らしいはずのその顔に、冷たく鋭い表情が浮かんでいたからだ。
「――?」
知巳は、ぐるりと周囲を見回す。
このアパート一帯に、奇妙な気配が漂っていることに、知巳は、先ほどから動物的な勘で気付いていた。明白な殺気と、それを阻もうとする意思。その強い感
情の名残のようなものを、知巳の第六感が察知してしまっていたのだ。それが、知巳の動きを、無意識のうちに油断無いものにさせていた。
無論、知巳は、このアパートに住む父娘が、巨大な闇の勢力によって脅かされていることも知らないし、それを一人の女性が人間離れした力と意思によって妨害していることも知らない。
ただ、そんな殺伐とした雰囲気の中で、目の前の少女は、いかにもそれに似つかわしい表情を浮かべていた。
「あんた、ヒットマンなの?」
「はあ?」
が、知巳は、命の言葉に、思わず間の抜けた言葉で応じてしまっていた。
多少の刃傷沙汰を経験したとはいえ、知巳の生活の中には、ヒットマンなるものが登場する場面は無い。
「ちょ、ちょっと、何言ってるんだよ。俺は京次さんに会いに来た客だってば」
「サラ」
命は、ドアのところに立っているサラに振り向いた。
「こいつ、お客さんに見える?」
「……」
サラは、おせんべを手に持ったまま、表情の無い目で、じっと知巳を睨んだ。
人を殺した者のみが有する凄みに、知巳の背にぞくりと悪寒が走る。
「お土産は?」
と、サラは奇妙なことを訊いた。
「お土産は、持ってないの?」
「いやその、俺は、持ってないんだけど……」
「じゃあ、客じゃないんじゃない?」
冗談なのか本気なのか、サラが、氷のように冷たい口調で言う。
「決まりね。あんたはヒットマンよ」
命は、そう言って、知巳に向き直った。
「おいおい! お前、ちょっと言うことがムチャクチャだぞ!」
「なによ。ムチャクチャなんかじゃないわ。失礼ね!」
「充分ムチャクチャだよ。冷静になれ。とにかく俺は客なんだ! 話は、通ってるはずなんだから……京次さんの家族はいないのか?」
「あたしはパパの家族よ!」
「え、だって、京次さんて、確か奥さんと、息子さんが一人……」
「鬼嫁詩女の話なんかするなーっ!」
次々と精神的な逆鱗に触れてくる知巳に、命は、くわっ、と牙を剥き出しにして、火を吹くような勢いで言う。
「お、おによめって……話が分からん! とにかく最初から順を追って……」
「うるさぁーい!」
命が、怪物ランドの王子様のような口調で叫ぶ。
「私は今ムシャクシャしてんだから、一発くらい殴らせろ!」
思わず本音を言いながら、ぶん、と命は、右の正拳を放った。
もし、知巳がそれに反応できなかったなら、命も我に返って拳を止めただろう。
知巳が一般人だったら、間違いなくそうなったはずだ。命とて、理由なく暴力を振るうような少女ではない。――たぶん。
が、知巳の不幸は、命の拳をかわしてしまったことだった。
「――!」
すっ、と命の目が細まる。
「あんた、やっぱりただもんじゃないわね」
そう言って――命は唇を歪め、笑った
そんな表情が、母親の面影のせいか、奇妙に美しい。
「……要するに、これがこの家の歓迎かよ」
知巳は、両手を肩の高さに構え、人差し指と中指を鉤状に突き出しながら、諦めたように言った。
「さすがに親父の知り合いの家系だけあって、非常識だな」
「女のコにそんな物騒な構え見せる男に、言われたくないわ」
「あいにくと、相手が女だからって手加減するようなしつけは受けてないんでね」
そう減らず口を叩く知巳の胴を、ぶん、と唸りをあげて命の右足が襲った。
空中に残像が残るほどの、素早い蹴りだ。
それでいながらしなやかで、足先が描くラインはあくまで美しい。
「しッ!」
知巳は、素早く後方に下がって、その蹴りをかわした。
と、命の左足が、瞬時に円を描いて、逆方向から知巳の膝を襲う。
「何?」
命が、次々に軸足をスイッチしながら、左右の蹴りを放っているのだ。
知巳としては、どうにかかわしながら、退がりつづけるしかない。
命の、左右からの連続攻撃に、両手の手刀が加わった。
両手両足利き腕利き足――
命の、舞うように美しい円弧の動きは、触れるだけで致命的な一撃になる回転する刃物のようなものだ。
それを、知巳はよけ続けている。
よけきれない攻撃は、弾き、捌き、受け止め、受け流す。
だが、そうすることによって、命の、さらに速く激しい攻撃を誘うことになってしまうことに、知巳は気付いていた。
(なんだ、この女――?)
まずは防戦に回って実力を窺おうか、などということを考えていた知巳は、猛烈に後悔した。
父親の修三や、母親の千恵子を組手の相手にしたときのような、背筋の凍るような恐怖がある。
それでも、目の前の命は、まだ本気になっていない。
無論、手を抜いてるわけではないだろうが、必死になってるわけでもない。
恐らく彼女は、強い感情を起爆剤にして、そのリミッターを外すタイプなのだろう。
(本気になってない相手にヤられるのかよ――!)
知巳は、屈辱に、ぎっと奥歯を噛んだ。
と、命が大きく踏みこみ、ぶん、と右足を振り上げた。
真正面からの、あまりにも直線的な前蹴りだ。
が、今までずっと命の円運動に目を慣らされていた知巳は、かえってその動きに眩惑されてしまう。
腹筋を破って内臓を破裂させるような、鋭い足先――
腕で受ければ腕が折れ、左右どちらによけても間に合わない。そんな強烈すぎる一撃である。
大きく後方に跳べば、あるいは避けられるかもしれないが、態勢を崩したところで次の一撃を食らえば終わりだ。
「でええ!」
知巳は、咄嗟に跳ねあがり、そろえた両足の裏でその蹴りを受けていた。
命の足先を踏み台に、知巳は大きく後方に跳躍する。
そして知巳は、両足で着地した。靴を履いた足の裏に痺れるような重い痛みを感じる。
命も、反動で、数歩後退させられた。
「く……」
葛城流柔拳術の防御術の一つ“波頭”。
真に致命的な一撃を受けるための、めったに使われない技である。
「仕切り直しだ……」
さすがに目に強い光を宿らせながら、知巳が言う。
「……」
と、命の背後に、おせんべを食べ終わったサラが近付いてきた。
「命、やっぱこいつ、ヒットマンじゃないんじゃない?」
想像以上に熱くなってしまった命を鎮めようというのか、今更のように、サラがそんなことを言う。どうやら、さっきの発言は彼女なりの冗談だったらしい。
「あんまりここで騒ぐと、あとあと厄介なことに……」
命は、そう言うサラの腕を、むず、と掴んだ。
「え?」
「本体付き、ロケット、パーンチ!」
そう叫んで、サラの体を知巳に向かって投げ飛ばす。
命の予想外の行動に、サラは、そのまま知巳に向かって一直線に飛んでいってしまった。
「――!」
限界までテンションを高めさせられていた知巳の闘争本能は、そんなサラを、新たな敵として認識してしまう。
(――まず、機動を殺す!)
知巳が、跳躍した。
サラと知巳が描く軌跡が、空中で交差する。
その瞬間、知巳の鉤状の指先が、サラの腰をかすめた。
「ッ!」
サラは、とん、と着地してから、数歩よろめき――
そして、べったーん、と尻餅をついてしまった。
「え……?」
サラのはいていた命のお古のスカートが、その膝あたりにまとわりついている。
知巳の指先が、正確にスカートのホックを弾き飛ばしていたのだ。
葛城流柔拳術“袴切”……。
可愛らしい水玉のショーツを剥き出しにしてアスファルトに座りこみ、茫然としていたサラが、きゅうっ、と羞恥と屈辱に眉を吊り上げた。
そして、ゆらりと立ちあがり、振り返る。
すでに振り返っていた知巳の顔を、サラが凝視した。
サラの目が、はっきりと殺意に燃えている。
「あ、やば……」
知巳は、先ほどの命以上の闘気を立ち昇らせるサラを前にして、我に返っていた。
一方、命は、サラを投げ飛ばすことで何だかスッキリしてしまったらしく、向かい合う二人を興味深そうにじーっと見つめているだけである。
(と……とうとう、あの技を使うときか……!)
知巳は、密かに決意していた。
葛城流最終奥義“回天”。
文字通り、あらゆる危機的状況を覆す、最後の秘技。
かつて父の修三が、母の千恵子との戦いにおいて用い、何度も窮地を切り抜けたという、いわく付きの技だ。
ぞくり、ぞくり、と、得体の知れない虫のような戦慄が、知巳の背筋を駆け上る。
かっ! と硬い音を立ててサラが地を蹴った。
一瞬遅れて、知巳の体が動く。
その動きは、まさに、疾風迅雷であった。
「ありがとうございました。助かりました」
「いやなに」
素直に礼を言う朱美と並んで、アパート近くの道を歩きながら、京次は頭を掻いた。
「それより、さっき言ったこと、よろしく頼むよ」
「娘さんの誤解を解いてくれってことですね。分かりました」
んふ、と朱美が悪戯っぽく微笑む。
その時――
「うおおおおおあおおおおおおおおおおおおおおッ!」
獣の如き咆哮をあげ、知巳が、二人の傍らを駆け抜けた。
「待てコラああああああああああああああああああ!」
珍しく感情を露にして叫び声を上げるサラが、ショーツ剥き出しで、逃げる知巳を追いかける。めでたくロケットからミサイルに格上げになった様子だ。
「ちょっとォ、スカートくらいはきなさいってばァ!」
そして、やや遅れて、ひらひらと手に持ったサラのスカートを振り回しながら、命が二人に続く。
京次と朱美は、目を点にして、そんな三人を見送った。
「さっきの――君のお兄さんだよな?」
感情を喪失したような声で、京次が訊く。
下半身ショーツ一枚の少女に追いかけられ、恥も外聞もなく逃げまくる双子の兄――
「――赤の他人です」
誰よりも近しいはずの肉親を、朱美は、そう評するしかなかったのであった。
おしまい